2013年12月12日木曜日

生きやすいのは先進国なのか

最近気づいたこと

普段はそんな疲れることはないんですが、
ここ数日やることをばーっとこなして(質はともかく)
ふうっと鏡を見たら目の下にクマが。

よく考えて見ると、日本に居た時はいつも私のそばで見守ってくれていたような気がする、、、。

友達にも「いつもやつれてて目の下のくまが怖い」と言われたことがあるあのクマが、ルワンダに来てからはさっぱり姿を現していなかった。

やっぱりこれは心の余裕でしょうか?
時間の使い方が上手くなったとかでは決してないので、日本に帰ったらレギュラー出演になるかもしれませんが、

私はこっちのタイムラインで生きてるのがすごい楽ですー。精神と身体にあっている気がします。
そうして今から日本への帰国を恐れているんです。。

もちろん家族、友達、周囲の方を恋しく思ってます。
日本食も食べたい。

でも日本で生きるのはやっぱり大変な気がする!
アフリカの方が生きてて楽!

電化製品とか全くなくても、水なくても、問題無いですよ。ほんとうに。生きれるし。

もっと残っていたいなー・・・。



2013年12月5日木曜日

ラストスパート!

ブタレに帰ってきて2週間。
インターンは大満足で終わりました!
そこからまた学校の生活に慣れてきたところです。

今月はルワンダ滞在最後の月です。
最後なのでゆったりルワンダンタイムを満喫したいのですが、最後に限って色々とやることが詰まって本当に忙しい。

主には今、創設中のピースクラブのワークショップ準備
フランス語のDelf試験
学校のプレゼンとレポート
NGOに出すインターンシップレポート
国立大学のanti-corruptionキャンペーンのお手伝い
帰ってからある手続き、イベント(某全国大会とか)の用意

忙しくても物事は進んでいかず、相変わらずゆっくりとすすんでいくから終わらない(笑


時間を作って待ってても、相手が来ない、イベントが2時間遅れる、インターネットはお金払ってるのに繋がらない、なんて、、、当たり前でしょと誰かが影であざ笑ってるよう。最後までルワンダ人の手の平の上でばたばたすることになりそうです。

また投稿すると思いますが、上に書いたピースクラブは日本に帰ってからもルワンダ人と協力してActionを起こせるように作っていて、平和学部(Peace Studies)に所属するルワンダ人とコンゴ人、ルワンダ人と日本人という4カ国が揃っているクラブ。上手く行ったら、太湖地域レベルの平和を考えていくために面白いことが出来るんじゃないかなー。とおもっています。

2013年11月26日火曜日

ぶってやる!



ルワンダの家族の中でこの言葉を聞かない日はありません。

特に子供に対して、そのペース、5分に一回。
「早くこれやってこれ手伝って!ぶつよ!」
「うちの中入って!ぶつよ!」
「なんで道路に出たの。ぶってやる!」

そして有言実行という言葉がありますように、、、ルワンダの人は、、本気でぶちます!

子供しつけにとっておき、魔法の道具が「スティック」★
つまり木の棒なんですが、何故かお母さんたちがぶってやると言った瞬間にその手の近くには丁度いい木の棒が、、、

泣き叫ぶ子供、家の裏に連れて行かれる子供、そしてパシッパシッという音と絶叫、、、

恐ろしや。
現代日本に生まれたゆとり世代代表としては、とても過激なしつけ方法に見えます。

このようなしつけは学校でも普通に行われています。ルワンダ人によると現在は法できんじられているとのことですが、実際に実践されているかというと、、、疑問です。
何人かの先生に囲まれ、正座の生徒を棒で打つ先生たち

なんで叩くの?と聞くと、だって子供は叩かないとわからないでしょ?という返事。憶測に過ぎませんがこうしたしつけがもしかしたら上からの圧力に従順なルワンダ人を生み出す一因になっているかもしれません。。



2013年11月25日月曜日

ルワンダ語辞書 最頻出日常会話編


*用例は実体験より抜粋


Ntakibazo(No problem) 意味: OK!(人が死んだとかそういうことはないというレベルで。)Rwandaの定義をEverything is Ntakibazoの国と書いたとして誤りではない最頻出単語。

用例:
A:自動車事故あったんだって?!かなり血を流しているのを見たよ!
B:ああ、彼は救急車で病院に運ばれて行ったけど、まあ、大丈夫だいじょうぶ!!Ntakibazo!!!(笑顔)


Muzungu (foreign people) 意味: 黒くない人

用例:
A:(道を通っていると)
子供: むじゅんぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!
ぐいーの!ママ!んだくうぇれかむじゅんぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!
(来てママ!白人見せてあげる)


Ndaje(I'm coming) 意味: 今行く!=2時間後には居る可能性がある

用例:
A:もう待ち合わせ時間だけど。どこいるの?
B:今家に居たよ(照)。Ndaje!
A::OK.
(1時間後)
A:まだ?
B:もうすぐ!Ndaje!
(1時間半後)
A:いまどこ?
B:雨が降ったから会うのは今度にしよう!

2013年11月22日金曜日

貧しいからこそ人は助け合える



田舎に住んでいる友達に日本の写真が入ったトランプをプレゼントしたら「オリジナルだ!」とびっくりされました。
新品のものじゃないことの方が多い世界
服や靴は中古品
下着も靴下もです。
ポケモンTシャツやドラえもんバック、ミッキー上着も見ましたが、何か分からず着ているよう。
カンフーは何故か皆知ってるのにディズニーを知らない

町でも人はどこかに穴の開いたような服を着ているし、
田舎に行くともっと程度が上がり、布が擦り切れて穴がぼっこぼこに開いて泥だらけの服を着ています。
新品を買おうと思ったら都市に行かなければいけません。

子供はタイヤとかガラクタをくっつけてつくったおもちゃで遊んでます。
裸足の人は多いし、
食事は豆、メイズ、プランテーンバナナなど。手のかからない穀物ばかり
男の人でも女の子ようのキャラクターバックを持っていたり。(プーさんの子供用リュックとか。かわいい)

また、勉強が好きで大学に行きたいけど、お金の関係で行けない、と言っている同年代の子もたくさん居ます。

わたしのいるキレヘに大学はありません。大学に行くためにはそこで過ごす生活費と学費が必要になりますが、現金収入がほぼない田舎で大学進学の費用をだすなど、簡単なことではありません。


一方で都市に住んでいるお金持ちの人や教会のパスターは、
「しっかりしたものを持たないと人から尊敬されないんだ」と、ベンツを乗り回して、毎日お肉とフリットを食べて、お腹がたぬきもびっくりなおおきさに膨らんでいます。首都キガリは妊婦さんの爆発的増加地域です。
そして使用人の人を家族のように扱っている人もいますが、本当に雑に接したり怒鳴ったりする人も。
ウムガンダというコミュニティーワークにお手伝いさんを行かせて自分は行かなかったり。
無駄にベットルームが3個、シャワーが2個位あったりするのは普通。

か く さ しゃ か い !!


では、田舎の人達は
「お金で幸福は計れない」
という点を、
キレへに来てますます感じています。

例えば、毎日のようなご近所さんの同士の訪問
コンセントや傘など日常品の貸し合い
子どもたちとの時間

日本では考えられないほど毎日家に訪問者が来ます!子供も入れると10人以上。音楽がかかれば皆で踊って、ご飯を分けあって、笑って、
工芸品をつくる仕事も外の草むらに皆で座って楽しそうに雑談をしながらやっています。
至る所で遊んでいる子どもたち。
小さい女の子も赤ちゃんを背負って遊びに出かけています。


貧しいからこそ人は助け合える、そんな希望も見えます。




2013年11月16日土曜日

ルワンダ辞書 行動編

ルワンダ辞書 行動編

喋る to talk
:とにかく挨拶とコミュニケーションは大事。
会ったほぼ全ての人に挨拶と握手、仲よかったらハグ
元気か、家族はどうか、どこに行くのか、どこからきたのか、平和か、いい日を、という感じの一連の挨拶を終える。
挨拶をし続けると、30分でつく学校に行くまでに3時間位かかったりする。
離れてるしいっか、誰かと話してるしいっか、などと日本的に挨拶をしなかった場合、後でなんで挨拶をしてくれなかったの?と聞かれる。
挨拶大事。

電話する to call
:電話代は安いのでいつでもどこでも皆電話をしている!そしてよく、挨拶だけのために電話がかかってくる。元気?→元気だよ!→良かった、OK see you!
これはよくある。
しばらく会えない子もよくかけてくれるのは嬉しい。
一方しつこい男の人はいつ家に来てくれるかを答えるまでかかってくるのには少し困ってしまう。
授業中でも電話があると人が教室から出て行く。授業<<<携帯
先生や司会者も、進行の途中で普通に携帯にでる。みんなでその様子を見ているのはシュール極まりない。おっ電話かかってきてる→おっ電話見た→って電話出るんか!と心で1人でつっこむ。
お金のない人はビープするが、大人でも常習犯は多い。電話が遅れた時の言い訳は「ごめんairtime(プリペイドカード)が切れてて!」である。
遅れる人は「Im coming!」と言ってくるが正しい訳は「運が良ければあと1時間以内につくよ☆」。

映画を見る to watch movie
:友達のパソコンを共有して見る。友達の家に遊びに行くと、喋る→お茶飲む→ご飯いただく→写真見る→映画見る、辺りは鉄板である。カンフー、空手、タイチ(太極拳)はだいたい皆知っている。日本の映画この前見たよ!と言われた時は大体中国映画の格闘ものであり少し悲しい。ルワンダ映画は最近作り始めているが、大体は外国映画をフラ語、英語またはキニャルワンダ語の翻訳で見ている。キニャルワンダ語がこれがなんともおもしろい。登場人物が喋った後に、1人の男の人がその情景とセリフを全部説明し、雰囲気も伝える。
例えば
「愛してる」「そんなの嘘よ!」などと登場人物が喋った後、
「男の愛しているというセリフを嘘だと疑う女性!!!険悪な雰囲気!」みたいな訳しているようである。
映画館は首都に最近出来た1個のみ。


2013年11月9日土曜日

キレへでの1週間


バナナの木の葉でつくられた青空お風呂
やぎさん牛さんの世話
土壁の小さいキッチンで薪を燃やして料理
すっごい時間がかかる
夜は必ず停電するので、7〜8時に寝る

雨が降ったら雨水を溜めて
水がなかったらくみにいく
牛乳は近所の人に毎日もらいにいって
子供はずっと外で遊んでて
皆踊りが上手い!

ご飯は米と芋とか
ウガリとか
キャッサバとプランテーンバナナとか
とにかく穀物攻め
朝はポーリッジ
飽きる、、と思ったら、なんかいつもよりバクバクと食べてる自分がいる不思議
あれ、下腹が、、、?

クリスチャンの家族なので、食前と就寝前はお祈り

いまのところダニさんノミさんの被害もない!
お腹を壊すこともなく
インターンもかなり興味深いものです。

このまま健康に楽しく過ごせますように。

インターンはじめました

一日中Tシャツを裏返しに着てたのをルワンダ人に、これは日本の文化なのか?と聞かれて初めて気づいた、そんな私ですが、文化伝導ということでね。。
おしゃれに気を遣わないのはいいとしても、表裏認識能力まで失ってはいけませんね。。
というのも明かりがない中で暗い部屋で着替えて、その後鏡がない中で生活していたから!気づかない!そして気にしない!

さて、私は今キレヘという田舎に居ます。
何をしているかというと、のんびりしてるわけですが

ブタレに居る時ものんびりしてたわけですが

こっちでは更にのんびりしてます!

今まではブタレというルワンダの大学が密集している町に住んでいたのですが、ここキレヘでは1ヶ月のインターンをする予定です。インターン先のNGOはジェノサイド後の和解を促進するために始まりました。現在は和解の初期フェーズをほぼ終え、加害者と被害者が共に養豚をしたり、聖歌隊を結成したり、伝統工芸品をつくるコーペラティプを作ったりして、協力することで更にコミュニティーを取り戻そうと奮闘しています。


今はステファニアさんというルワンダ人の方のお家にホームステイをさせてもらっています。
ステファニアさんはジェノサイドのサバイバーで、今インターン中のNGOの活動の中の1つ、「償いの家造り」によって家を建設。
この償いの家造りという活動は、ジェノサイドの加害者の人々が被害者に謝罪をした後、家を加害者自らの手で作る、という活動です。
お子さんが3人、ステファニアさん、ステファニアさん、そして養子の女の子とステファニアさんの母親の5人で暮らしています。

本当に笑顔が素敵なステファニアさん、
長女のコンソレが英語を少し話せるので助けてくれるのですが、
ほぼキニャルワンダ語。
そしてインターン先のスタッフが使うのはフランス語とキニャルワンダ語のミックス
語学的には恐ろしく良い訓練。うわー!
残り2ヶ月というところで、これまでにない勢いで自分のキニャルワンダ語が伸びています

でも、3月に一回訪問をした時点ではキニャで全く会話が出来なかったステファニアさんと、7ヶ月後にゆっくりなら会話が出来るようになるとは、外では役に立たない現地語それなりに話してきた甲斐があったかな?
と思います。






2013年11月5日火曜日

ほんとに自業自得なのか

自業自得

今の日本ってこんなイメージ。
例えば、近所の人の息子が受験に失敗して不良になって母親に暴力を振るうようになり、家庭が崩壊しました。
「可哀想。大変だろうね。きっと教育のせいもあるんじゃない?」
「ほんとうね。気持ちは分かるけど、うちの息子に影響が出ないようにしてほしいな。」

現代の日本は弱い人に手を差し伸べることが出来ない世の中になっているんではないでしょうか。

他人の問題を、個人やその家族の中に見出し、理由をつけ、自分との関係性を断つ。
自体の悲劇性や問題解決の困難さに同情はしても、問題を自分の枠の外に置き続けたい。

そのような意識は自分自身の価値観の中にも幼少期から育まれてきたと感じます。
具体的な例を考えてみます。
例えば、ボランティアを福島の震災後の地域で行った女性Aさん。
現地の人たちからお礼や笑顔をもらいやりがいと充実感を感じたとしましょう。おそらくAさんはまたこの人達のために働きたい、と思うはずです。
そのAさんにはBさんという友達がいました。Bさんは駆け落ちをし、子供を生んだあと、シングルマザーで子供を育てていました。酒やドラッグに手を出したうえ、両親から絶縁され貧困生活を余儀なくされていました。Aさんはそのことを知っており、明らかにBさんは危機に陥っていましたが、BさんからはAさんが自らそのような人生を選んでいるように見えました。そこでAさんがお金の支援を数回持ちかけても「構わないでよ」と逆に激怒したBさん。この時BさんのためにAさんは何かしたいと思うでしょうか。もしくは積極的に彼女の問題を解決してあげたいと思うでしょうか。休日を使って上の2ケースのどちらを手助けしたいと思うでしょうか。

ここでの問題提起は、「助ける価値のある」昔は知り合いではなかった震災地の人々を積極的に助ける一方で、自分と近い近所の人、クラスメート、同僚などの問題であったとしても「助ける価値のない」と判断した人間を、極端に排除するような社会になっていないか、ということです。

いわゆる「助けるに値しない」「助けられる権利がない」と考えられそうな人々は「助けなくていい」、そんな考えを持つ人が日本の社会に多くなってるんではないでしょうか。感謝されたい、自分をよく見せたいという動機から良い事ができたとしても、それが自分に少しでも危険を及ぼすものであればしたくない、ような考えが。というか私の中にそのような価値観が強く存在したことを、ルワンダに来て初めて気づきました。情けないですが。

「せっかく助けてやろうと思ったのに、それどころか怒るとは、なんてやつだ。」
「そもそも、彼女は自己責任でこうなった。意志が弱かったんだ。自業自得だ。」
こう思ったことが、誰しもあると思います。

「助けが必要な状況だったら、あっちから言うべきだ。」
「まあ後で自分で後悔して気づくでしょ」

Bさんの心はきっと他の人より弱かったのかもしれません。
手を差し伸べてくれる人に対し、甘えないこと、強がることがBさんにとっての人間の尊厳を守るための手段だったのかもしれない。
彼女の問題の根源は家族や恋人にあるかもしれない。けど、他に支えてくれる人がいなかったからかもしれない。社会の中で他に頼るべき人が居なかったからかもしれない。
Bさんが人の優しさに感謝するべきと思う人もいるかもしれないけど、その時Bさんにとってはお金の支援は不必要で、同じ立場で親身になって考える人が必要だったのかもしれない。

自分が感謝されたい、という気持ちを抜きに、Bさんの弱さや痛みに寄り添うという行為が、どれだけできるでしょうか。

私は助けてもらう必要がないくらい強く生きよう、という意識が幼少期から強かったと思います。
努力しなきゃ報われない。良い事をしたら幸せになる権利がある。仏教的な影響も強く見られます。
そこでは自分が頑張って、努力したからこそ、時にはいい結果を掴み取れる、ということがある種当然に思えました。
それは義務と権利の関係で言うと、「善く」生きる義務と、幸せや助けを得る権利とも言えるかもしれません。
(今考えると善がどれほど自己解釈で構成されているかという点も問題ですが・・・)

この意識は自分を律することには十分な作用を持ってきたと考えています。しかしそれを他人にも適用することはとても恐ろしいことと今では感じます。なぜならば「善く」生きる義務を果たせないものには、幸福や助けを受ける権利を消失するという論理になってしまうからです。この時対象から排除されるのは、義務を自己の意志ではなく放棄せざるを得ないもの、を含みます。

つまり「強く生きれる者」以外を無価値化して扱おうという世の中になるでしょう。誰もが「強く生きなきゃ、頑張らなきゃ」と思い、「頑張れない自分が駄目なやつだ」と感じる。日本がその傾向を持っているのではないかというのが私の考えです。

そこで思ったことは、義務と権利の関係ではなく、相手と自分の関係性をみること。

言い換えれば「助けるべき人だから人を助けてあげたい」ではなくて、「困っていそうな人がいるから、一緒に生きて、時間を過ごして、問題を解決する一助にでもなりたい。」というような心持ちで周囲を見渡せたら、ということ。
自分や家族や他人の問題から自分を遠ざけてしまわないで、本当の意味で親身になって考えられたら、ということ。
「社会的に弱い存在」を支える人になりたいということ。人の弱さや痛みを担える人間になりたいということ。

ということでした。


なんのためのボランティアなのか?


最近よくシェアされている記事に関して、なんとなく思ったこと。

自分の人生の目的と行動を一致させて考えてみると、やるべきことは分かりやすいんじゃないか?
もしボランティアの活動対象が人であったら、
誰のための目標と、誰のためになる行動なのか。
これがばらばらだったり、どっちか欠けていると、道に迷いやすいのかもしれない。

例えば
多くのボランティアにある潜在意識
「いいことをしたいから」
「成果を出す経験をしてみたい」

もし表面的には貧しい人たちを救いたいとか言っていて、その人達のためになると思われる活動をしていても、自分の目標が本当はその人達を助けるためよりも、自分の自己実現を重視しているときは、その活動は短期的な成功を収めることは出来ても、長期的にその人達のためになるかどうかは怪しいでしょう。
偽善でもやるだけいいじゃないか、といわれたら確かにそうですけど、でも動機は絶対結果に現れると思うんです。
今の時代は短期ボランティアや夏休み留学など「手軽」に手に入る「経験」が宣伝されて
お得な、ある意味ではボランティア側にだけ都合のいいシステムが多すぎますよね。
(もちろん短期でも本当にその土地の役に立てるような業務はあると思いますが。例えば人材不足の地域での労働力の提供とか)
それは自分が手軽に良い事をしたいから参加するのでしょうか。それともその土地の人達のために何かをしたいからするのでしょうか。

また、自分にとっての「良いこと」を目的化しないようにも注意が必要ですよね
植民地の時代にミッショナリーは無知無文化のアフリカ人を教育するためという理由付けの元、植民地政策の初期段階に大きな役割を担いました。
それと同じことをしてる人たちは現代にいっぱい居るんじゃないでしょうか
自分の「right」を相手にとっての「right」を知りもせずに押し付ける。
アフリカは技術や学術の面で後れを取っているのは事実ですが、
例えば外人がいきなり来て焼畑を強制終了させて耕作して失敗してしまった例があるように、その土地の人や文化を知らずして、勝手に自分にとっての常識や「良いこと」をおしつけることはやめるべきです。


一方で、気持ちはあるけど行動に出ていない例。
国際問題をディスカッションしていて、
「大変なんだね、自分たちはそうじゃなくて幸せだ」
「これから考えていかなきゃね」
っていう感想で終わるのは、意味が無いですよね。

大変だから、どうすればいいのか?
これからはいつか?
更には
なんのために考えるのか?
誰のために?
何故その人のために何かしたいのか?

せっかく興味があるのなら、ディスカッションだけで満足したり、就活は切り替えて別の仕事と割り切ったりするのは勿体ないことです。社会の問題点を知っただけで、社会は変わりません。

目的と行動を一致させるのは、自分のためにもなると思います。
例えばこのボランティアの例で言うと、いいことをした気になって、でも自分は先進国で得られる利益を傍受して、途上国を可哀想とだけ思って、そこから学ぼうともしない、そんな人って逆に可哀想じゃないですか

私が最近思ったのは、国際協力の現場で活動するならば、
1つ問われていることがあるんじゃないかということ。

「感謝されなくても、成果がなかなかでなくても、その人達に寄り添っていく覚悟があるのか、」

自己犠牲の精神self-sacrificeがあるのか?

こっちに来て、クリスチャンの人や、実際の土地で生きているアフリカの人のほうがよっぽど平和に対する意識が高いと思いました。自分がその現場に入ることで、得られるものの大きさを分かっているからでしょう。

日本はまさに平和ボケの時代にあるのかもしれません。問題が不可視化され、多くの人が日本が平和だと思っている今の状態は、決して平和なことに対して油断しているというのではなく、平和だと思い込んでいること自体が問題なのだと思います。

なんか色々と考えていつも通りの乱文ですが、自分の将来を重ねて考えていました。
社会の中で自分はどう立つべきか?
今自分に問い続けています。。。


M23撤退

コンゴから国連軍の後ろ盾を得たコンゴ国軍の手により、M23が撤退しています。
M23は2012年3月23日より発足したコンゴ国内にいる反乱軍で、コンゴ東部を占領し、大量の難民の発生、コンゴ内戦の長期化の最大要因となってきました。
このM23にはルワンダ政府の関与が指摘されており、ルワンダの確か国防長官が指揮をとっているとリークされていました。
現在は銃声がなりつづき、難民は80万人に及んでいるようです。
M23はウガンダ、ルワンダに逃亡し、コンゴからの非難をうけています。
今がコンゴ内戦の将来を決める大きな分岐点となっていることは確かです。

日本ではどの位報道されているのでしょうか。

2013年10月28日月曜日

機会の平等

東京で生きるより、秋田にいるころの方が何も考えずゆっくり生きていました。
なぜかというと考えなきゃいけないこと、やらなきゃいけないこと、娯楽に行く所、といった「選択肢」が驚くほど少なかったからでしょう。
特に特技もないし、趣味もない私なので、何かに熱中した記憶があまりありません。
強いて言えば趣味は一人オセロと読書でした。(楽しかったです)
何もすることもないけど、何かに焦らされることも少なく。
私は秋田が好きです。東京に来てからますます郷土愛というものが深まったようです。
少なくとも老後は秋田のような田舎で過ごしたいなーと思います。

しかし、大学受験に際しては、何もない秋田から出たいという強い気持ちはありました。

もし私があの時東京に来るのを止められていたら、もしくは財政的な余裕がなく断念せざるを得なかったら、相当なストレスと抑圧を感じていたはずです。
いわゆるお勉強にかけた努力に見合うチャンスがないということにわだかまりを感じていたはずです。

今日は機会の平等ということについて考えていたのですが、

私はルワンダの人は日本に比べ社会的に充足した状態にあり、日本人が憐れむどころか見習うべき点がたくさんあると思います。みんな楽しそうに笑うし、声を掛け合ったり、家族や友達といる当たり前の時間を当たり前に持っています。

しかし先進国に住む私達が海外旅行を気軽に行う一方で、300円かければいける隣の国にも行ったことがない人がたくさん居ます。
欧米人やアジア人の人と話していると、「日本に今度行こうと思ってる」「日本に来なよそしたら案内するから」「絶対行くよ!」という会話になるのですが、ルワンダ人の友達と話していると「日本に行きたい!」「来なよそしたら案内するから」「でも実現可能かは分からない、、航空券も高いし、行ってからもかかるんでしょ?将来的に絶対行きたいけど、、」

という会話になってしまいます。
大学へのアクセスがない若者もたくさん居ます。一年で4万ほどの授業料は現地の人にとっては大金です。
今は働いて機会を待っているけど、いつになったら貯まるのか予想もつかない。
または労働力需要が少なすぎて働くことも出来ず居候生活、など、よく聞く話です。

そんな時、ルワンダ人の友達になんて返せばいいのか、よく分からなくなってしまうのです。
所詮自分は幸運にも機会を得て自分の好きなように留学し、物価のギャップを利用してそれなりの暮らしをしているのですから。

平和学の権威ヨハン・ガルトゥングがPotentiality潜在的実現可能性のために構造的な暴力が克服されるべきと論じましたが、これも彼がpotentialityを妨げられている状態と言うのではないでしょうか。
日本では(もちろん全てが簡単というわけではないですが、)お金を借りたり、奨学金をもらうことが比較的容易にできます。田舎の学校と言っても当たり前にパソコンが使えますし、勉強用具の点でほとんど差異は出ないと思います。
もちろん私も田舎育ちなので、都会に比べれば様々な面で大学進学などへのチャンスが狭められていたと感じます。
しかし、機会が全くない人は少ないと思います。

機会の平等、特に教育へのアクセスがどうすれば改善されるか、
ルワンダはかなり進んでる方だと思うのですが、
来月は現地で田舎の現状をもうちょっと見てきたいと思います。

2013年10月24日木曜日

インターネットについて

インターネットが最近本当に遅い。
Gmailを開くのに10分、幸運だと1つのメールを開くのに5分
普段は開けないといった感じ。
Facebookは上の青いバーしか表示されない。
アフリカの地でこれだけインターネット回線が発達していることはもちろん最初は驚きであったけれど、
回線があるのに使い物にならないのでは、最初から無い方がマシなのではないかと思う。


ところでわたしの通う大学では、みんなが様々な言い訳を言って文献を読んでこないのですが、その大きな言い訳の1つとして、インターネットコネクションがあります。
パソコンを持っている人は少ないし、インターネットを使うためのモデムを持っているひととなると極稀です。
そして繋がったとしても回線は遅くてDLも途中で強制終了したり。
多くの資料がメールで送られ読んどけと言われる時もあるのですが、実際読んで来る人はほとんどいません。
学校のコンピューター室に至っては悲劇的な状況で、私は今まで回線がいい時にあたった試しがありません。

まあ単に不真面目な人も多いわけなんですが、

そうやって家にネットもないし、朝から学校の前まで仕事をしているのでどこか別の場所で使う暇もないような人も、一枚3円のコピーをするお金がない人も居るわけです。

そうなると先生の側からも強くいうことが出来ず。
ルワンダの先生はパソコンが壊れたといって必要な情報を開示してくれないことさえあります。

キガリという首都になるとぐっと良くなるらしいですが、、、
こればっかりはどうしようもないですね。
YouTubeや色んなサイトをみてだらだら出来ないのを前向きにとるしかありません。

2013年10月21日月曜日

雨とダンスと体重

今日は昼ごろに強く雨が降り出しました。

雨=約束中止

これはルワンダで小学校の算数で教わっている方式かと思われます。

今日はインターンに行く予定だったのですが、2時の約束が2時10分の電話で当然のように中止になりました。
この国ではインターンでなくても友だちとの約束でも集会でも当然のように、延期ときどき中止になる模様です。
また、雨季は毎日雨がふってこその雨季ということで大体約束は明日か明後日の方向に進む見込みです。

以上現場からの中継でお送りしました
というわけで最初は傘をさしてせっせと歩いていましたが、最近では頑張って行っても誰もいないし損、という思考になり、結果雨がやむまではゆっくりしています。
これを人は順応と呼ぶのでしょう

私の部屋の窓の1つは何故かガラスがなく、今日の土砂降りでは雨が家に入ってきて大変でした。
洗濯物も乾かず、、、


こんな日は誰も居ない寮の食堂に行って軽い筋トレとダンスの基礎練習をするのが好きです。
ルワンダにはダンスをする場所といえばナイトクラブかエアロビクスしかないので、寮の食堂は床がコンクリートなのでヒールを使えるし、無駄に広いし、ダンスにはぴったりなのです。ええ不審者ですけど、、、まあルワンダだから大丈夫!
私は競技ダンスという部活に入っているのですが、ルワンダで社交ダンスを知っている人は全く居ません。
7ヶ月も離れていると、、やはりダンスをしたいなあと思います。
更に最近私は順調に大きくなっているわけなのですが、日本に帰るまでにはたるんだ筋肉を取り戻して、身体を引き締めなければと。

あーうらら久しぶりーー!あれ、、、動くじゃがいもか。

と言われかねない危機的な状況です。身体はまあいいんですけど顔が、、
食を制限するダイエットよりも、健康に食べて筋肉をつけて運動すれば確実にやせることが部活のお陰で分かったので、元に戻るまで少しずつ運動を続けたいなあと思います。

ちなみにルワンダじんには「ルワンダ人に近づいてきたね」と喜ばれます!
足が綺麗で細い子は「私の足は棒みたいでよくない」と言ってるし、
価値観は全然違いますね。

2013年10月14日月曜日

太湖地域の平和

今日は「平和」の意味を考えた一日でした。

ルワンダは治安がいいと言われています。
住んでみても、今まで盗難や事件にあったことは一回もありませんし、人々は大体優しく、他の地域に比べると驚くほど平穏です。

人々の挨拶でも
Ni amahoro?(Is Peace) 平和?
Ni amahoro.(Yes) うん平和−。

といった掛け合いがよくされています。

しかしその平和とは誰にとっての平和でしょうか?
ルワンダは平和だ、と言った時、その平和は「ルワンダ国内」の「一部の」国民にとっての「消極的な」意味にとどまっていないでしょうか。
ルワンダ政府が関わることにより複雑化しているコンゴ情勢を無視したものになっていないでしょうか。
ブルンジでの一時的な停戦の先へ進むために、ルワンダからできることはないのでしょうか?

例えば、今ルワンダの治安がいいことはもちろん喜ぶべきことです。
しかしだからといって、ルワンダ政府の関与が明らかであるコンゴ紛争に見て見ぬふりをし続けていいのでしょうか。
その政府を支持している以上、国民には国家の行動に責任が伴うと思います。
コンゴへの関与の絶対的な否定や、彼らが野蛮だから戦争が続いているといったような発言をする人、関与を認めつつも現在の政権の方針を指示している人。
情報公開がされていないこと、法律で表現の自由に規制がかかっていること、などもちろん政府に反する行動をおこしにくい社会であることは確かですが、それでも一部のルワンダ人の態度に疑問を抱きます。

今日は新入生の歓迎会を開きました。
その中で短時間のディスカッションの時間を作りました。私達が設定したテーマは「<太湖地域の平和>の意味とは」
以前まで留学生はわたし一人だったのですが、新しくコンゴやブルンジからの留学生が大学に来ました。これにより、ルワンダ人だけで話すことが出来る平和から、もっと視野を広げたディスカッションができたと思います。

一人の学生が
Peace is not for certain person, but for all
と言いました。
We cannot achieve any kind of peace when any other country in great lake region is in war and there is someone who struggle from violence, hunger and poverty.

Given the situation in DRC and relationship among countries in GLR, we have to go beyond discussion. It means that Peace studies should be treated with practical means as much as theories.

一介の学生たちに何が出来るのか
武力介入を容認したままでいいのか。
現政権のいい面を残しつつ変えていくことは可能なのか。。

リスクがないアイディアは思いつきません。
国外追放や逮捕などのリスクはもちろん避けたいですが、
だからといって何もしないのでは日本に居て黙っているのと同じです。

Indeed, We need peace
という歌(友達作)が心に残りました。




2013年10月11日金曜日

無償の優しさ

ルワンダ人は本当に優しい。簡単に詐欺に騙されそうな純粋さであり、子供だったら簡単に誘拐されそうな人懐っこい子どもたちがたくさんいる。

今日もいつもの道を通って家に帰ろうとしたら、雨が降ってきた。

まずいなー傘持ってないな−と思っていると、バイクタクシー乗り場に溜まってるドライバーたち10人位がこっちに来いこっちに来いと言っている。

このドライバーたちはわたしがいつも通るので顔と名前は覚えてくれているみたいで、いつも挨拶や軽い会話をしている。

でも今はお金ないからバイク乗らないよ、家近いし!
といって通りすぎようとすると、

というと、問題ない、大丈夫、うららは友達だから、と言ってわたしに無理やりヘルメットをかぶせ、雨が強くなるから!と急かし、バイクに乗れの合唱。そして、家までタダで乗せてくれた。

お金もそんなにないはずなのに、バイクタクシーにタダで乗せてくれることはよくある。

現地語をちょっと覚えたおかげでコミュニケーションが最低限できることも、こうして優しさをもらえる理由の1つかもしれないけど、それを抜きにしても、こんな無償の優しさをもらえることって日本だと少ないんじゃないか。


ちょっと嬉しかった出来事でした。

2013年9月11日水曜日

キニヤルワンダ語を勉強するということ

今、大学の友達がルワンダに遊びに来てくれているため、ルワンダをちょこちょこと案内しています。
キニャルワンダ語の世界、全く新しい環境、空気、人
戸惑うのも当然だと思います。
来たばかりの彼女に説明をしていると、自分の6ヶ月前をそのまま見ているようでした。

挨拶や質問にどう返したらいいかも分からない。
想像以上に通じない英語とフランス語
至る所で感じられる文化の違い
同じ年の学生との経済力の違い
途切れる水と電気
おそらく標高が高いために生じる不眠やだるさ
時間通りに来ない人々
虫さんたち
などなどなど

こうしてみると6ヶ月前、挨拶もままならなかった時期と比べて、少しばかり私のキニャルワンダ語も上達してきたように思います。最低限のコミュニケーションと簡単な時制の応用は大分出来るようになってきました。キニャルワンダ語なんて覚えてどうするのか、将来何の役にも立たないじゃないか、そう思われる方も多いとは思います。

私も最初はそう思っていましたし、英語とフランス語がある程度のレベルに達することが語学面での目的でさえありました。多くの人々がキニャルワンダ語だけを話すことに気づいた時は、ショックでさえありました。

しかし6ヶ月目にして気づいたのは、外の世界では全く役に立たないキニャルワンダ語能力が伸びることで、私はとっても幸せを感じているということです。

また詳しく書きますが、私の留学における最大の目的は「アフリカの人と社会を知ること」でした。ゴガクはそのためのツールですから、ルワンダにおけるキニャルワンダ語は最強の武器になるのです。キニャルワンダ語を使った時、周囲の反応はまったくちがうことを感じます。その土地の文化を尊重できない人やただ調査や援助の対象として人々を見ている人の多くはローカル言語を覚えようとしませんが、日本に住んでいておはようさえも覚えようとしない外人を想像すれば、地域の言語を覚えることの重要性が自ずと感じられるでしょう。

極端な言い方かもしれませんが私は顔も知らない、興味ない人たちを助けるなんてこと、私は偽善でもできません。偽善から生まれた一方的な援助は、対象地域の人々に逆に悪影響を及ぼしたり、更なる搾取の一助となるケースが跡を絶たないからです。私は偽善でもいいから助ければいいじゃないかとは思いませんし、一方的で上から目線の援助は被援助側も望んでいないんではないかと思うのです。

しかしこうやってキニャルワンダ語を使い、人々と接することは、私が自然にルワンダの人々に好意を抱くきっかけをつくってくれました。そして一緒に彼らの苦しみを分かち合いたいと心から思えるような人たちにも多く出会いました。6ヶ月前には1つのコミュニケーションも取れなかった人々と談笑できるようになりました。

もちろんいろいろな面で問題は起きますし、絶対に好きになれない人もいます。文化の違いに戸惑いを覚えることもまだまだあります。でも今はルワンダの社会で生きることに幸せを感じていますし、単に自分にルワンダがあっていると思います。残り4ヶ月、もっともっと色んなことを知りたいし、そのために外では何の役にも立たないキニャルワンダ語をもっと上達させたいと思います。


これからタンザニアに旅行に行ってきます。
帰ってきた後はジェノサイドのサバイバーと加害者との和解の推進の活動について、何回かに分けて詳しく書きたいと思います。

2013年9月6日金曜日

焼けない不思議

ルワンダに来て、結構外に出て歩いてる時間が多い。
ルワンダ人の移動が足が基本。
みんなゆっくり歩いている。
というわけで道路にはいつも人がたくさんいる。
子供も外でかけっこをしたり、おばあさんが木陰でお昼寝していたり。

ところで、はたと気づくと、日本に居る時と比べ、肌が焼けていない。
私はとても焼けやすい体質で、中学校でも通学10分間外に出ていただけで真っ黒だった。

しかしルワンダでは焼けていない。
ある人が言うにはルワンダは日本の7倍紫外線が強いらしい。。
では、なぜだろう。

疑問に思って、知り合いにそれを伝えてみると、
「周りが全員黒いから気づいてないかもしれないけど、十分焼けてます」

なるほど、人間って無意識に相対的な物の見方をしてるんだなあと納得した。

2013年9月4日水曜日

今日から。

よく留学が楽しそうだね、と言われます。
楽しいです!実際。
そしてルワンダを選んだことを後悔することはほぼありません。
しかし、いつもフェイスブックではリア充投稿以外はしなかったのですが、もっと複雑なことや、伝えきれないこと、面白いことがたくさんあります。文化が違いすぎて、理解不能なこともたくさん。

自分一人で考えるタイプなのですが、同じような興味を持っている友人がせっかく沢山いるのですから、それをシェアすることは有益なことになると思います。
また、未完成の文章を出していく度胸も今の私には欠けているので。
ということでブログを公開にしました。いくつか削除した後で笑

といっても
性格上こまめには更新できないし(←22年間で学んだ諦め
毎日パソコンに向かうのも嫌なので、
今までどおり、時々、皆さんに共有できたらいいなと思うことを
暇な時に書きたいと思います。

そこでアフリカに興味がもっと湧いたり、
身近に感じて下さったら幸いに思います。
コメントを下さったらとても嬉しいです。


・・・更新しても通知は特別しないと思います。
そして変な虫がパタパタうるさくて眠れません。

2013年8月16日金曜日

乾季の終わりに水を思ふ

2ヶ月間ほど、雨を全く見ませんでした。
季節が次々と変わりゆく日本と違い、ここは快晴、生活に適した温度。
日本と違い湿度が低いので、暑くても心地よい、不思議な感覚に襲われます。
空が青く晴れ渡り、建物に邪魔されないパノラマを見ながら散歩するのが私の趣味です。

私が乾季が好きなのは、やはり道路事情の影響です。
道路が石で出来ているところは問題ありませんが、土で出来ている道路は悲惨なものです。
更に舗装されていないどころか、自然が舗装されるのを拒否しているから、だからほったらかしにされているのか?と疑問に思う程の道も多くあります。
そこでそのような道を歩くことでサンダルはぐっちゃぐちゃに汚れますし、下手をすると足を切ります。(サンダルを履かなければいいのですが、サンダルが好きなので)

もう一つあげるとすると、ルワンダでは雨が降る=約束守らなくていい
という感覚で生きている人が多いからです。
これはルワンダあるあるの1つであり、「言い訳があれば、遅れてもいい」という文言が立法化されているのかと思わせるほど徹底された集団行動です。
雨が降ると当然のように授業の出席率は50%を切ります。傘を使って間に合うように行くという考えは微塵も見受けられません。もちろん貧困ゆえに傘を買えない人も居るわけですが、お金がある友達も傘を買ってないどころか、雨の中で移動することを拒否してました。

雨→言い訳できた!→行かない


生活には乾季が過ごしやすいのですが、75%を占める農民にとっては事情が違います。水の枯渇は土から生命力を奪い取ります。地域によって水が豊富な地域とそうでない地域に分かれるルワンダでは、南部は比較的水源が豊富ですが、東部になると1時間かけて水源に行かなければならない地域も多いとのこと。そこで日本からの援助としては、東部にはJICAや青年海外協力隊の皆さんが多く水の量的質的な向上に励んでいるようです。

キレヘでは、私がきた後に雨が降ると、お客さんが雨を呼んできた!という感じでとても感謝されました!そんな諺があるようです。いいお客さんは雨を呼んでくる的な。
それからは雨が降ったからといって気分を沈めてないで、喜んでもいいのかな、と思うようになりました。

この乾季の終わりの時期は、乾季の始めよりも断水がひどくなってきました。
汗だくで帰って水が出ない時の絶望感と言ったら、、、水風呂でさえとてもありがたいことだと実感されます。水ゆとり地区のブタレでこれですから、他の地区はさぞかし大変でしょう。

日本に居たときよりも自然の影響力を感じて生きてる気がします






2013年7月25日木曜日

Arrest in kigali

BBC 7/25
Eleven members of a breakaway Catholic group have been arrested in Rwanda after they tried to deliver a "vision from Virgin Mary" to President Paul Kagame, urging him to make reforms.
The group had staged an illegal protest outside the presidential residence in the capital, Kigali, police said.
Protests outside Mr Kagame's home are extremely rare, correspondents say.
The opposition accuses him of running an authoritarian regime since he took power in 1994.
However, his supporters and Western governments credit him with ending a genocide that killed some 800,000 people before his rebel forces seized power in Rwanda.
The BBC's Jean Claude Mwambutse reports from Kigali that those who were arrested came from the little known Intwarane group, which is not recognised by the official Roman Catholic church.
Police chief Emmanuel Gasana said the group was arrested as it was heading towards Mr Kagame's home in Kigali's wealthy suburb of Kiyovu.

1, 現地記者(おそらくルワンダ人)による、彼らがインテラハムウェから来たという情報が怪しすぎる。UK政府とRwanda政府の繋がりを考えても、信憑性を疑わざるをえない。
2, 記事からするに暴力的な運動ではない。逮捕するに十分な理由が本当にあったのか。


しつけ、、、とはなんぞや

「子どもの時、母さんのしつけはとっても怖かった、、!」

と大学の親友のS。
可哀想なことに、ルワンダの人は子どものしつけに暴力を使うことがとっても多い!

長い木の棒を、子どもを叱る時に使う。
私の仲がいい友達はもれなく両親からの暴力を受けていた。
「自分が子どもにする気はない」でも「当時は普通のこととして受け止めていたよー」とS。

しかし、この習慣がルワンダ社会に及ぼしている影響は計り知れない。
暴力を用いたしつけ方しか知らないから、子どもを同じようにしつける。
特に昔からの習慣を保ち続けている田舎で顕著だ。

私は子どもには絶対暴力を使いたくないと思う。
日本における暴力と教育のジレンマについても同様。
精神力、体力、経済力、社会的地位、全てにおいて無力で無抵抗の子どもに暴力行為を振るうということ、卑怯じゃないかなー。
とか言っといて、ストレス溜まった時にコツンとやったりしないかちょっと不安←

でも直接的暴力だけに留まらない。その後の人格の根源に関わる問題。
なぜかというと、生まれつき攻撃的な子どもは居ないはずで、性格形成の根幹を担う幼児期の暴力はその後の人生を狂わせることだってある。

児童虐待を教育だと言われて育った子供が、暴力なしの教育をどうやって知れるのか。
親の一発が子供の子供にまで、または社会のどこかで暴力行為として発散される責任をどうやってとれるのか。

子供のトラウマは長期化するという点でも問題がある。
私が親から受けた暴力というと、一発しか思い出せない。
しかしその一発が私の長期に渡る反抗期の引き金を引いた。(気がしないでもない。)
一発だけだからなのか、それとも陰湿な性格だからか!今でもその時のことは詳細に覚えている。
トラウマは特定の色や味覚、映像、音、匂いで容易に蘇り、完璧に忘れ去ることは不可能に近いって言われてる。
子どもの一生に関わる大きな問題。

だがこの国では学校でも(昔よりは減ったそうだが)暴力が教育として容認されているし、問題意識も格段に低い。日本でも暴力が教育に必要という意見もあるが、自分の教育能力の低さで生じた必要性であって、自身の問題やストレスを子どもに投げつけているだけじゃないのか、というのが私の思うところだ。

Powerの定義は色々あって、人にどんな影響をどれだけ与えられるか?というのが1つの定義としてあり、分類分けが試みられていると最近知った。その中でも肉体的なダメージや心理的な脅迫を伴った力は、本当の力じゃないと思う。本当にすごいのは、相手を説き伏せる力。心理的に相手の自主性に働きかける力なのかなと思う。

ルワンダで児童の権利の認知度向上のためな活動を行なっている機関は知っているが、そこの活動で子どもへの暴力が取り上げられることは驚くほど少ない。
そもそも文化的暴力の側面が根強いため、暴力として認知されること自体が少ないのかもしれない。つまり、文化の中で育ってしまった常識から引き起こされる暴力だから、その暴力が「常識的に考えて」問題として認識されないということ。

新しい世代が、しつけとしての暴力を否定してくれたことは、とても嬉しいことだと思った!


2013年7月21日日曜日

理論と実践:ジェンダー

Most of men support the idea of "Gender Equality" although there are less men who can do in practical way.

 Today I had a conference about Gender with 200 rwandan people and 10 foreigners. In the discussion, the various opinions making me so excited were expressed from different point of view. So I really appreciate this opportunity to share our minds and learn theoretical perspective of Gender Equality.

However, despise academical conversation in the discussion, I realize that it is only in terms of theory that men could agree with and understand the women's opinion. Just after saying that gender equality should come true through the change of whole society, they say that they cannot wash their children because this work is reserved for women !!  

I am strongly sure that men never understand the feeling of women. Off course I know there are many men who care about gender issues with all their heart. However it is women who can really address the gender issues and help themselves. Most of people who have power, I mean men, cannot know the feeling of those who take lower statues than these of mens. I think that is why they sometimes unconsciously violate the right of women.


Some men asked the question that "the notion of gender equality came from outside, European country, then, accepting the imposition of western thoughts can be good for us?" I really agree with the importance of protecting tradition. Thus I think Rwanda don't need to accept any western notion, even human rights. Because nobody can say that western culture is always better than rwandaise. It is not the truth.

However, it matters little if rwandaise chose to adapt the notion of Gender Equality that came from european because it is only a one of tools in which we might improve the statues of women. 
The point is that IS THERE  ANY PEOPLE WHO SUFFER FROM PRESENT SITUATION?

The question is simple. There are people in need. Why not help them? How can we help though which from today?

To advocate the idea of Gender Equality is one of the tools in order to make everyone recognize that issue. If rwandaise don't want to westernized any more, no one should force them to use. Instead, problems are there. How can we address? What is the way to changing society? 

It is the next step.





ごみは捨てるもの?

ルワンダの道はきれいだ。
他の途上国に比べて、道のゴミはおどろくほど少ない。

しかし、ルワンダ人がゴミを道に捨てないか、というとそれは違う。
彼らは捨てる。思いっきり捨てる。大胆すぎて気づかない時もある。
食べたらペッと家の床でもするし、
ではなぜ道が綺麗なのかというと、片付ける人が居るからである。

政府の統制が強いルワンダでは、コミュニティワークやコミュニティーサービスと言われる無償労働制度があり、これによって市民が動員される。
または最下層の人間が最低賃金がないなかで最低賃金以下で働く。

先日仲いい友達とこれについて討論になった
というか、床にごく自然に紙が捨てられたのを見て、驚いた。昭和の文豪か初恋相手へのラブレターの書き損じじゃあるまいし

「どうしてゴミ箱に入れないの?」
「ゴミを片付ける人たちがいるからだよ」
「いやいやゴミ箱捨てればその人達の仕事減るじゃん」
「そしたら彼らの仕事なくなるじゃないか」
「それで仕事なくならないし、私達が捨てなかったらもっと綺麗に出来ると思うけど」
「でもここには階級があってゴミを拾う人たちは拾う人たちだから」

そこからはなしをすることすうじゅっぷん

ルワンダは中級家庭であればお手伝いさんを雇い、ゴミは捨てるもの、ツバははくものとして育ったし、謙虚さはやり方によって自分の地位を下げる行為になる。

つまり中級階級が下層階級を見下し、月0〜2万RWF(0〜2800円位)で働く人々は生活のために、中級階級以上の後始末や3k労働を余儀なくされている状況。

日本も同じだろうが、この国の貧富の差があまりにも広いことを日々感じる。

2013年7月18日木曜日

ケニアでの日本人殺害

ケニアで日本人が殺害されました
JICAの下請け機関で働く男性がお金を下ろした後に襲われたようです。

ケニア、特にナイロビは観光都市としてその存在感を年々上げている一方、治安の悪さにおいても東アフリカの中で際立つ存在です。

以下詳細

アフリカのケニアで、日本のODA(政府開発援助)によるコンテナターミナルの開発工事に関わっていた日本人男性が、3人組の強盗に襲われ死亡した事件で、工事を統括する東洋建設の幹部が、16日夜、現地に向け出発した。
東洋建設によると、亡くなった協力会社の「イーストマリン社」社員・小川 悟さん(51)は、現地時間の15日午前11時半ごろ、ケニアのモンバサ市内の銀行で、現金およそ300万円を下ろし、事務所に戻る途中、3人組の強盗に襲われたという。
3人組は、小川さんが乗った車の窓ガラスを割り、金品を要求したものの、抵抗されたため、銃で小川さんを撃ったという。
その後3人組は、近くに待機していた2人組とともに、バイクで逃走したという。(FNNニュースより引用)

銀行で300万円をおろすという行為はアフリカにおいて決してよくある行為ではありません。100万円程下ろそうものなら銀行内のドルを根こそぎ奪ってしまうか、そんなお金はおいてないと言われるのが普通です。

現地の人の給料は年10万円あったら家族が十分生きていけるような社会です。田舎では未だに現金収入が0の人も多く居ます。都市から離れた農家の方で自給自足の生活をしている場合などです。日本人(というかアフリカ人以外全て)は金持ちという前提がまずありますので、お金に関しては特に注意が必要です。日本人は無防備な場合が本当に多いと言われますが、現地の人は生活のために襲う時は死ぬ気で襲ってくるんです。10万円の強盗でも何百万の価値を持っているというわけです。

これが計画殺人だったのか、突発的なものなのか、まだ記事からは分かりませんが、どちらにせよ銀行関連対策の重要性が再確認されたと思います。ルワンダの日本人の間でも注意喚起が為されました。ルワンダに住んでいると想像以上の平和さに気が緩んでしまうのですが、これからこのようなことがないように、アフリカにいる私達はますます気を引き締め万全な対策をしなければ、と思います。


アフリカの同性愛者(記事)

前回の記事と関連する記事。(2009)
http://abcnews.go.com/blogs/headlines/2009/12/africas-culture-war-the-fight-over-ugandas-antigay-bill/

ルワンダでも同様の法案がかけられていたんだなー。
ルワンダの記事。これも反対(2008)
http://www.newtimes.co.rw/news/index.php?i=13467&a=4809
http://www.newtimes.co.rw/news/views/article_print.php?i=1298&a=1143

アフリカの価値観がよく分かると思います。
特にキリスト教への信仰が深い人が多いルワンダでは、聖書へ逆らうという時点で他の理由はいらずに反対という人が多い印象。

2013年7月16日火曜日

ルワンダ人と結婚すべきだ

こんなことを言ってくるおじさんがよくいる。
というかおじさんが居たとすると、そのおじさんと、珍しい外国人によってきた周りの暇そうなおじさんたちがみんなで言ってくる。
今日もお店に入ったら、仕事終わりで飲んでるおじさんに捕まった。終わってないのかもしれない。朝から晩まで飲んでるかもしれないようなおじちゃん達。

この結婚くだりを既に100回位は繰り返しているので正直面倒臭い時もある。

よくあるお決まりジョークなのは分かっているのだけど、1,2,3,と来たらダーであるのと同じように、挨拶して、職種聞いて、国籍聞いたら、結婚の話は欠かせないのがルワンダあるあるである。毎日聞かれると嫌になってくる
でもおじさんたちはチャーミングなので、今日もついついおしゃべり。

私達日本人がルワンダ人と結婚できないか、というとそれは否定できる。

アフリカ人と聞いて全くイメージの湧いてこない人も多いと思うが、実際今までに2人誠実で真面目で気の利くルワンダ人学生を見た。1人は国立大学の学生なのだが、本当にいい友だちだし、何よりこのルワンダの盲目的な社会において政府を比較的冷静に分析しているところが好印象。
もう1人は学校のクラスメイトで委員長をやってるしそれなりにしっかり者。いっつもキニヤルワンダ語が不自由な私を気遣ってくれる。

こんなルワンダ人なら日本人女性とも相性がよさそう。

そして私の先輩にもアフリカ人と付き合っている方も2人もいる。それをふまえるとアフリカ人との結婚という道は現実的な選択のように思える。もちろん彼らの大部分はお金を持っていないが、日本の若者より毎日を力強く生き抜いているアフリカ人の魅力はお金に打ち勝つものがあるだろう。

だが、ルワンダ人と結婚すべきだ、と言われると、否定したくなる。

そもそも、彼氏の基準は人種じゃないかな。肌の色でもない。文化の違いでもない。
私の中で優先されるのは、根底にある倫理観の基準が近いかどうか?
根本的な感覚が近ければ、細かな経済的社会的文化的差異は克服できるだろうなーと思う。多分。そんなことを現実的に感じたのはルワンダ人と仲良くなってからだけど。


一番いい交わし方は
「私は牛100頭は必要だよ☆」っていうこと。
花嫁の家に牛を送るのが、ルワンダの文化なんです。




彼らとの戦い

ルワンダに来て、不満に思うことは予想より遥かに少ない。

しかしそんな平和な日々を壊す唯一の敵が存在する。
それは奴らだ。至る所に忍び込み、隙をついては仲間を増やす。

最初は驚き動揺したものだが、待っていても誰も助けてくれないと悟った時、私は一段階強くなった。
彼らに対して感情を一切打ち消すこと、この能力を極限にまで高めることで、必要以上の体力消耗を防ぐ。

しかし今日は勝手が違った。彼らは私のお風呂用のポットに潜伏していたのだ。敵は10匹以上…。でかい…
私はカトリック系の独身女性寮に住んでいて、そこでは1日に一回お湯を支給してくれる。しかしそれを取り逃すと、ポットは寮の暗くて湿っている場所で夜保管されるため、このようなことが時々起こる。
前回は無我の境地に至らず、ポットを振り回した結果、ポットごと破壊した。怖かった‥

しかし今回の私は違う。5ヶ月の訓練の成果もあり、集中力を高め、根絶やしとし、これにて一件落着。
しかし悔しい。私の精神状態は崩され、その後の食欲にも影響をおよぼすこととなった。

なぜ彼らは私と共生できないのだろう。いやこれは人間の問題か。彼らはおそらく共生できるのだが、私はできない。

例えばこれを紛争の理論に当てはめると、どうなるんでしょう
この紛争が彼らと私との間の「両立不可能な目標」に起因することになります。
これを分析するツールは色々あるのですが、その中の1つがconflict onionといって、Position, Interest, Needという3つを明らかにするものです。

私のポジションは彼らを部屋から追放することであり、あちらのポジションは部屋に居着くこと。Interestは繁殖を防ぐことや清潔さを損なわないこと(あと単に見た目がよろしくない)とか。あっちのinterestは食と住を安定し、繁殖すること。私のneedは守られたい。あっちのneedは生きることでしょうか。

暇だったのでこんなくだらないことを考えてましたけど、結論としては

人間ってすごい!強くなれるんだから。(成れるのか、慣れるのかは知らないが)

2013年6月25日火曜日

ゲイやレズ達(LGBT)の権利?



いきなりだけどLGBTの人々の結婚する権利って、日本だとどう考えられてるんだろう。

*LGBT=女性同性愛者、男性同性愛者、両性愛者(バイセクシュアル)性転換者・異性装同性愛者(トランスジェンダー)

これを考えたのは今日授業で、この対立、結婚を主張する側と反対する側についてディスカッションがあったからだ。

2,000年に世界初の同性婚をオランダが認めてから、ヨーロッパではスペイン、スイス、ベルギー、最近ではフランスが異性婚と全く同じ権利を与えた法律の制定で話題となり、イギリスも追随すると考えられている。

アメリカのいくつかの州やメキシコ、ウルグアイなどでも認められており、カナダに至っては居住条件なしで同性婚を認める唯一の国らしい。

私は結婚を認めて良いと考えた。ほとんど知識のない私は、本能的な意見になってしまったが、すっごい単純に言えば私にとって同性間の結婚の禁止はクランや皮膚の色で結婚を禁止するのと一緒に感じるから。平等な人権という概念に則って、結婚と同様の枠組みにすることに慎重になるべきかもしれない。しかし、少なくとも税や相続のシステムにおいて不公平が存在しない枠組みを作ることが、基本的なニーズを守る上で国家に必要とされることじゃないかと思う。

しかし、教室のルワンダ人は全員NO。12vs1。孤独な闘いだったが、色々と面白いディベートになった。


反対の理由は宗教上の教義の人が多かった。彼らにとっては聖書で禁止されている以上、同性結婚はanti-christの考えである。彼らの権利も理解できるけど教義上賛成できないと言っている人も居た。また、跡継ぎを生み、家を絶やさないことが肝要だという意見も多かった。昔の日本とも同じ意見だろう。

しかし、そのような議論を通り越して、私はある一点がとても重大な問題と感じた。そもそもルワンダの中に同性結婚の問題が存在すること自体知らない学生が多かったことだ。ルワンダには近年同性結婚のアドボカシーを行う機関も存在するというのに。近隣諸国のウガンダやケニアで関連法案が議論を巻き起こしているというのに。

アフリカの国々では同性愛は「白人の文化だ」として、考えを端から拒絶反応を起こす人も多いことを聞いたことが会ったが、今回もそれを強く感じた。外国人が運んだ同性愛の文化はアフリカの文化とは相反するものであり、同性愛者の権利の促進を西洋諸国が行うことは西洋文化の押し付けだという。人々の間に、特に教育を受けてないものの間では、性的マイノリティに対する態度は不寛容とも感じる。そして聞いた話では、性的マイノリティーの人々は周囲に相談せず、引きこもるしかなくなるという。これは問題が文化によって押さえつけられ、不可視化されているということじゃないか?

まず、そのような性的マイノリティの人々は実際に居り、差別や偏見と戦って一生を生きることを余儀なくされている現実があるのだから、人々はその事実に自覚的にならなければいけないと思う。自分の国には問題がない、と考えるのが一番こわいのだ。

そして、聖書を盾にして説明することは、説得力を持たないことに気づく必要がある。90%超がキリスト教のルワンダにおいては、それで済むのかもしれない。しかし、信仰が厚いあまりに、聖書で罪とされる条項に関しては不寛容になりがちではないか。同性愛は聖書で禁止されていることを理由に、多くの人が反対をしていたが、聖書を元に反論するならば

例えば。聖書の中で宗教上の罪とされる条項は多くある。キリスト教の中では人はみな、自身がそれを守ることの出来ない罪人であり、それをキリストが自らの死によって贖い、赦しを与えてくれていることを元に、相手を赦すことも根本原則としてある。(キリスト教の方、訂正が有ったら御願いします)

しかしながら同性愛といった時にはそれが罪であることを取り立てて扱い、同性愛者嫌悪や不寛容が先行することが多い。意識的に人間が犯すsinが赦され、無意識的に異性愛者でいることができない人々のsinが断罪であるように扱うのはいかがなものかと思う。

(もちろんキリスト教の人がみな同じように考えているわけではない。私のクラスメートに多かっただけで、同性愛者の権利を真剣に考えている人は山ほどいるし、上記の考えは他の宗教でも、特にイスラム圏で起こっている。)


と、ここまで考えたところで、自分の中での最大の矛盾点に気がついた。私は日本のことについて全くと言っていいほど知らなかった!

さて、日本だとどうだろう。


日本の憲法は同性の結婚を認めていない。

日本国憲法第24条1項「 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」

2項「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」


婚姻が夫婦によるもので夫婦が両性と規定されているので、夫婦の定義を広義に改正しない限りには婚姻は不可能である。


その代わりに日本では養子縁組制度が代替として使われてきたそうだ。親子とすることで、家族関係を結べる。そのために欧米諸国に比べれば歴史的に両性愛者からの法に対する反発は少ないという。


とはいってもやはり真の婚姻関係を求める側からは、少なくとも婚姻に代わるパートナーシップ法の創設が望まれている。パートナーシップ法は両性愛者が親子縁組というかたちではなく、平等なパートナーとしての地位を保証する。


アルジェリア人エンジニアの知り合い(イスラム教)も、婚姻関係には強く反対だが、パートナーシップ法として、区別された方であれば賛成できると言っていた。


時代とともに性的マイノリティーの権利は強く主張されている。今のルワンダの価値観を否定するつもりはない。しかし現在のように文化的価値観によって議論そのものが不可視化されている状況を脱することは必要だろう。議論を十分にした上で、ルワンダ人によって判断が為されるべきじゃないかと思う。

そして日本においても同様に、婚姻関係をめぐる権利について議論の用意をしていく必要があるだろう。現在の自民党はレインボープライドというとても有名な同性愛者のための団体のインタビューの中で性同一性障害は取り組む必要があるが、結婚は異性間のものなので同性愛は人権問題として取り組む必要がない、という方針だそうなので、政治に任せておくと、そんな動きはやってこない危険性が非常に高そうではあるけれど。


2013年6月19日水曜日

癖ってうつって癖になる

適応能力の高さにはそれなりの自信がある。
日本社会の文脈においていうと、個性が埋没したり意見を言わないことと結びつきそうだけど、ここで言う適応能力は異なる文化への適応能力で。

私は日本の文化に誇りを持っているし、簡潔に言うと、好き。
だが、他の国の文化も同じように平等に評価したり、良いと思ったり使いやすいと感じたものは自然に生活の中に取り込めるし入り込める方だと思う。


ルワンダ人は挨拶やうなずく時に、あごをあげるようにしてサインを送る時がある。
日本では他人をあごで使うようで忌み嫌われるが、
ルワンダ女性がやるとなんか、意味深げで、いい。

とか、ぼんやり思っていたらいつの間にか、完璧に移っていることに気づいた。
返事をする時、挨拶をする時、離れていても使えるので便利。
日本でよくある、「あっ挨拶するか、しないか・・・」みたいな駆け引きをする必要もない。
ルワンダでは皆が皆に挨拶してるし、遠くの人もあごグリーティングでそつなくこなせる。目があって、自然に挨拶していると、相手との内緒の暗号のようで楽しい。
こんなこと考えてるの私だけかもしれない。
でも、なんか好き。


そして日本で言うと「なんなの!」とかいいたくなるときには、

チッチッチッと舌打ちのようにする人がいる。

つまり「仕方がないなあ」とか「可哀想に」など、驚嘆や同情を示す時に。
友人らによると舌打ちとこのサインは違うから行儀悪くはないとのこと。
であるが、こちらからすると一緒にしか聞こえない。

そして初めて聞いた時には行儀悪いなーと思ったけど、今では・・・
ルワンダ人よりもしているかもしれない。

日本に帰って舌打ちとあごコミュニケーションは、危険だ。


わかっちゃいるけどやめられない。のでした。