東京で生きるより、秋田にいるころの方が何も考えずゆっくり生きていました。
なぜかというと考えなきゃいけないこと、やらなきゃいけないこと、娯楽に行く所、といった「選択肢」が驚くほど少なかったからでしょう。
特に特技もないし、趣味もない私なので、何かに熱中した記憶があまりありません。
強いて言えば趣味は一人オセロと読書でした。(楽しかったです)
何もすることもないけど、何かに焦らされることも少なく。
私は秋田が好きです。東京に来てからますます郷土愛というものが深まったようです。
少なくとも老後は秋田のような田舎で過ごしたいなーと思います。
しかし、大学受験に際しては、何もない秋田から出たいという強い気持ちはありました。
もし私があの時東京に来るのを止められていたら、もしくは財政的な余裕がなく断念せざるを得なかったら、相当なストレスと抑圧を感じていたはずです。
いわゆるお勉強にかけた努力に見合うチャンスがないということにわだかまりを感じていたはずです。
今日は機会の平等ということについて考えていたのですが、
私はルワンダの人は日本に比べ社会的に充足した状態にあり、日本人が憐れむどころか見習うべき点がたくさんあると思います。みんな楽しそうに笑うし、声を掛け合ったり、家族や友達といる当たり前の時間を当たり前に持っています。
しかし先進国に住む私達が海外旅行を気軽に行う一方で、300円かければいける隣の国にも行ったことがない人がたくさん居ます。
欧米人やアジア人の人と話していると、「日本に今度行こうと思ってる」「日本に来なよそしたら案内するから」「絶対行くよ!」という会話になるのですが、ルワンダ人の友達と話していると「日本に行きたい!」「来なよそしたら案内するから」「でも実現可能かは分からない、、航空券も高いし、行ってからもかかるんでしょ?将来的に絶対行きたいけど、、」
という会話になってしまいます。
大学へのアクセスがない若者もたくさん居ます。一年で4万ほどの授業料は現地の人にとっては大金です。
今は働いて機会を待っているけど、いつになったら貯まるのか予想もつかない。
または労働力需要が少なすぎて働くことも出来ず居候生活、など、よく聞く話です。
そんな時、ルワンダ人の友達になんて返せばいいのか、よく分からなくなってしまうのです。
所詮自分は幸運にも機会を得て自分の好きなように留学し、物価のギャップを利用してそれなりの暮らしをしているのですから。
平和学の権威ヨハン・ガルトゥングがPotentiality潜在的実現可能性のために構造的な暴力が克服されるべきと論じましたが、これも彼がpotentialityを妨げられている状態と言うのではないでしょうか。
日本では(もちろん全てが簡単というわけではないですが、)お金を借りたり、奨学金をもらうことが比較的容易にできます。田舎の学校と言っても当たり前にパソコンが使えますし、勉強用具の点でほとんど差異は出ないと思います。
もちろん私も田舎育ちなので、都会に比べれば様々な面で大学進学などへのチャンスが狭められていたと感じます。
しかし、機会が全くない人は少ないと思います。
機会の平等、特に教育へのアクセスがどうすれば改善されるか、
ルワンダはかなり進んでる方だと思うのですが、
来月は現地で田舎の現状をもうちょっと見てきたいと思います。