2013年6月25日火曜日

ゲイやレズ達(LGBT)の権利?



いきなりだけどLGBTの人々の結婚する権利って、日本だとどう考えられてるんだろう。

*LGBT=女性同性愛者、男性同性愛者、両性愛者(バイセクシュアル)性転換者・異性装同性愛者(トランスジェンダー)

これを考えたのは今日授業で、この対立、結婚を主張する側と反対する側についてディスカッションがあったからだ。

2,000年に世界初の同性婚をオランダが認めてから、ヨーロッパではスペイン、スイス、ベルギー、最近ではフランスが異性婚と全く同じ権利を与えた法律の制定で話題となり、イギリスも追随すると考えられている。

アメリカのいくつかの州やメキシコ、ウルグアイなどでも認められており、カナダに至っては居住条件なしで同性婚を認める唯一の国らしい。

私は結婚を認めて良いと考えた。ほとんど知識のない私は、本能的な意見になってしまったが、すっごい単純に言えば私にとって同性間の結婚の禁止はクランや皮膚の色で結婚を禁止するのと一緒に感じるから。平等な人権という概念に則って、結婚と同様の枠組みにすることに慎重になるべきかもしれない。しかし、少なくとも税や相続のシステムにおいて不公平が存在しない枠組みを作ることが、基本的なニーズを守る上で国家に必要とされることじゃないかと思う。

しかし、教室のルワンダ人は全員NO。12vs1。孤独な闘いだったが、色々と面白いディベートになった。


反対の理由は宗教上の教義の人が多かった。彼らにとっては聖書で禁止されている以上、同性結婚はanti-christの考えである。彼らの権利も理解できるけど教義上賛成できないと言っている人も居た。また、跡継ぎを生み、家を絶やさないことが肝要だという意見も多かった。昔の日本とも同じ意見だろう。

しかし、そのような議論を通り越して、私はある一点がとても重大な問題と感じた。そもそもルワンダの中に同性結婚の問題が存在すること自体知らない学生が多かったことだ。ルワンダには近年同性結婚のアドボカシーを行う機関も存在するというのに。近隣諸国のウガンダやケニアで関連法案が議論を巻き起こしているというのに。

アフリカの国々では同性愛は「白人の文化だ」として、考えを端から拒絶反応を起こす人も多いことを聞いたことが会ったが、今回もそれを強く感じた。外国人が運んだ同性愛の文化はアフリカの文化とは相反するものであり、同性愛者の権利の促進を西洋諸国が行うことは西洋文化の押し付けだという。人々の間に、特に教育を受けてないものの間では、性的マイノリティに対する態度は不寛容とも感じる。そして聞いた話では、性的マイノリティーの人々は周囲に相談せず、引きこもるしかなくなるという。これは問題が文化によって押さえつけられ、不可視化されているということじゃないか?

まず、そのような性的マイノリティの人々は実際に居り、差別や偏見と戦って一生を生きることを余儀なくされている現実があるのだから、人々はその事実に自覚的にならなければいけないと思う。自分の国には問題がない、と考えるのが一番こわいのだ。

そして、聖書を盾にして説明することは、説得力を持たないことに気づく必要がある。90%超がキリスト教のルワンダにおいては、それで済むのかもしれない。しかし、信仰が厚いあまりに、聖書で罪とされる条項に関しては不寛容になりがちではないか。同性愛は聖書で禁止されていることを理由に、多くの人が反対をしていたが、聖書を元に反論するならば

例えば。聖書の中で宗教上の罪とされる条項は多くある。キリスト教の中では人はみな、自身がそれを守ることの出来ない罪人であり、それをキリストが自らの死によって贖い、赦しを与えてくれていることを元に、相手を赦すことも根本原則としてある。(キリスト教の方、訂正が有ったら御願いします)

しかしながら同性愛といった時にはそれが罪であることを取り立てて扱い、同性愛者嫌悪や不寛容が先行することが多い。意識的に人間が犯すsinが赦され、無意識的に異性愛者でいることができない人々のsinが断罪であるように扱うのはいかがなものかと思う。

(もちろんキリスト教の人がみな同じように考えているわけではない。私のクラスメートに多かっただけで、同性愛者の権利を真剣に考えている人は山ほどいるし、上記の考えは他の宗教でも、特にイスラム圏で起こっている。)


と、ここまで考えたところで、自分の中での最大の矛盾点に気がついた。私は日本のことについて全くと言っていいほど知らなかった!

さて、日本だとどうだろう。


日本の憲法は同性の結婚を認めていない。

日本国憲法第24条1項「 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」

2項「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」


婚姻が夫婦によるもので夫婦が両性と規定されているので、夫婦の定義を広義に改正しない限りには婚姻は不可能である。


その代わりに日本では養子縁組制度が代替として使われてきたそうだ。親子とすることで、家族関係を結べる。そのために欧米諸国に比べれば歴史的に両性愛者からの法に対する反発は少ないという。


とはいってもやはり真の婚姻関係を求める側からは、少なくとも婚姻に代わるパートナーシップ法の創設が望まれている。パートナーシップ法は両性愛者が親子縁組というかたちではなく、平等なパートナーとしての地位を保証する。


アルジェリア人エンジニアの知り合い(イスラム教)も、婚姻関係には強く反対だが、パートナーシップ法として、区別された方であれば賛成できると言っていた。


時代とともに性的マイノリティーの権利は強く主張されている。今のルワンダの価値観を否定するつもりはない。しかし現在のように文化的価値観によって議論そのものが不可視化されている状況を脱することは必要だろう。議論を十分にした上で、ルワンダ人によって判断が為されるべきじゃないかと思う。

そして日本においても同様に、婚姻関係をめぐる権利について議論の用意をしていく必要があるだろう。現在の自民党はレインボープライドというとても有名な同性愛者のための団体のインタビューの中で性同一性障害は取り組む必要があるが、結婚は異性間のものなので同性愛は人権問題として取り組む必要がない、という方針だそうなので、政治に任せておくと、そんな動きはやってこない危険性が非常に高そうではあるけれど。


2013年6月19日水曜日

癖ってうつって癖になる

適応能力の高さにはそれなりの自信がある。
日本社会の文脈においていうと、個性が埋没したり意見を言わないことと結びつきそうだけど、ここで言う適応能力は異なる文化への適応能力で。

私は日本の文化に誇りを持っているし、簡潔に言うと、好き。
だが、他の国の文化も同じように平等に評価したり、良いと思ったり使いやすいと感じたものは自然に生活の中に取り込めるし入り込める方だと思う。


ルワンダ人は挨拶やうなずく時に、あごをあげるようにしてサインを送る時がある。
日本では他人をあごで使うようで忌み嫌われるが、
ルワンダ女性がやるとなんか、意味深げで、いい。

とか、ぼんやり思っていたらいつの間にか、完璧に移っていることに気づいた。
返事をする時、挨拶をする時、離れていても使えるので便利。
日本でよくある、「あっ挨拶するか、しないか・・・」みたいな駆け引きをする必要もない。
ルワンダでは皆が皆に挨拶してるし、遠くの人もあごグリーティングでそつなくこなせる。目があって、自然に挨拶していると、相手との内緒の暗号のようで楽しい。
こんなこと考えてるの私だけかもしれない。
でも、なんか好き。


そして日本で言うと「なんなの!」とかいいたくなるときには、

チッチッチッと舌打ちのようにする人がいる。

つまり「仕方がないなあ」とか「可哀想に」など、驚嘆や同情を示す時に。
友人らによると舌打ちとこのサインは違うから行儀悪くはないとのこと。
であるが、こちらからすると一緒にしか聞こえない。

そして初めて聞いた時には行儀悪いなーと思ったけど、今では・・・
ルワンダ人よりもしているかもしれない。

日本に帰って舌打ちとあごコミュニケーションは、危険だ。


わかっちゃいるけどやめられない。のでした。