自業自得
今の日本ってこんなイメージ。
例えば、近所の人の息子が受験に失敗して不良になって母親に暴力を振るうようになり、家庭が崩壊しました。
「可哀想。大変だろうね。きっと教育のせいもあるんじゃない?」
「ほんとうね。気持ちは分かるけど、うちの息子に影響が出ないようにしてほしいな。」
現代の日本は弱い人に手を差し伸べることが出来ない世の中になっているんではないでしょうか。
他人の問題を、個人やその家族の中に見出し、理由をつけ、自分との関係性を断つ。
自体の悲劇性や問題解決の困難さに同情はしても、問題を自分の枠の外に置き続けたい。
そのような意識は自分自身の価値観の中にも幼少期から育まれてきたと感じます。
具体的な例を考えてみます。
例えば、ボランティアを福島の震災後の地域で行った女性Aさん。
現地の人たちからお礼や笑顔をもらいやりがいと充実感を感じたとしましょう。おそらくAさんはまたこの人達のために働きたい、と思うはずです。
そのAさんにはBさんという友達がいました。Bさんは駆け落ちをし、子供を生んだあと、シングルマザーで子供を育てていました。酒やドラッグに手を出したうえ、両親から絶縁され貧困生活を余儀なくされていました。Aさんはそのことを知っており、明らかにBさんは危機に陥っていましたが、BさんからはAさんが自らそのような人生を選んでいるように見えました。そこでAさんがお金の支援を数回持ちかけても「構わないでよ」と逆に激怒したBさん。この時BさんのためにAさんは何かしたいと思うでしょうか。もしくは積極的に彼女の問題を解決してあげたいと思うでしょうか。休日を使って上の2ケースのどちらを手助けしたいと思うでしょうか。
ここでの問題提起は、「助ける価値のある」昔は知り合いではなかった震災地の人々を積極的に助ける一方で、自分と近い近所の人、クラスメート、同僚などの問題であったとしても「助ける価値のない」と判断した人間を、極端に排除するような社会になっていないか、ということです。
いわゆる「助けるに値しない」「助けられる権利がない」と考えられそうな人々は「助けなくていい」、そんな考えを持つ人が日本の社会に多くなってるんではないでしょうか。感謝されたい、自分をよく見せたいという動機から良い事ができたとしても、それが自分に少しでも危険を及ぼすものであればしたくない、ような考えが。というか私の中にそのような価値観が強く存在したことを、ルワンダに来て初めて気づきました。情けないですが。
「せっかく助けてやろうと思ったのに、それどころか怒るとは、なんてやつだ。」
「そもそも、彼女は自己責任でこうなった。意志が弱かったんだ。自業自得だ。」
こう思ったことが、誰しもあると思います。
「助けが必要な状況だったら、あっちから言うべきだ。」
「まあ後で自分で後悔して気づくでしょ」
Bさんの心はきっと他の人より弱かったのかもしれません。
手を差し伸べてくれる人に対し、甘えないこと、強がることがBさんにとっての人間の尊厳を守るための手段だったのかもしれない。
彼女の問題の根源は家族や恋人にあるかもしれない。けど、他に支えてくれる人がいなかったからかもしれない。社会の中で他に頼るべき人が居なかったからかもしれない。
Bさんが人の優しさに感謝するべきと思う人もいるかもしれないけど、その時Bさんにとってはお金の支援は不必要で、同じ立場で親身になって考える人が必要だったのかもしれない。
自分が感謝されたい、という気持ちを抜きに、Bさんの弱さや痛みに寄り添うという行為が、どれだけできるでしょうか。
私は助けてもらう必要がないくらい強く生きよう、という意識が幼少期から強かったと思います。
努力しなきゃ報われない。良い事をしたら幸せになる権利がある。仏教的な影響も強く見られます。
そこでは自分が頑張って、努力したからこそ、時にはいい結果を掴み取れる、ということがある種当然に思えました。
それは義務と権利の関係で言うと、「善く」生きる義務と、幸せや助けを得る権利とも言えるかもしれません。
(今考えると善がどれほど自己解釈で構成されているかという点も問題ですが・・・)
この意識は自分を律することには十分な作用を持ってきたと考えています。しかしそれを他人にも適用することはとても恐ろしいことと今では感じます。なぜならば「善く」生きる義務を果たせないものには、幸福や助けを受ける権利を消失するという論理になってしまうからです。この時対象から排除されるのは、義務を自己の意志ではなく放棄せざるを得ないもの、を含みます。
つまり「強く生きれる者」以外を無価値化して扱おうという世の中になるでしょう。誰もが「強く生きなきゃ、頑張らなきゃ」と思い、「頑張れない自分が駄目なやつだ」と感じる。日本がその傾向を持っているのではないかというのが私の考えです。
そこで思ったことは、義務と権利の関係ではなく、相手と自分の関係性をみること。
言い換えれば「助けるべき人だから人を助けてあげたい」ではなくて、「困っていそうな人がいるから、一緒に生きて、時間を過ごして、問題を解決する一助にでもなりたい。」というような心持ちで周囲を見渡せたら、ということ。
自分や家族や他人の問題から自分を遠ざけてしまわないで、本当の意味で親身になって考えられたら、ということ。
「社会的に弱い存在」を支える人になりたいということ。人の弱さや痛みを担える人間になりたいということ。
ということでした。