2013年11月26日火曜日

ぶってやる!



ルワンダの家族の中でこの言葉を聞かない日はありません。

特に子供に対して、そのペース、5分に一回。
「早くこれやってこれ手伝って!ぶつよ!」
「うちの中入って!ぶつよ!」
「なんで道路に出たの。ぶってやる!」

そして有言実行という言葉がありますように、、、ルワンダの人は、、本気でぶちます!

子供しつけにとっておき、魔法の道具が「スティック」★
つまり木の棒なんですが、何故かお母さんたちがぶってやると言った瞬間にその手の近くには丁度いい木の棒が、、、

泣き叫ぶ子供、家の裏に連れて行かれる子供、そしてパシッパシッという音と絶叫、、、

恐ろしや。
現代日本に生まれたゆとり世代代表としては、とても過激なしつけ方法に見えます。

このようなしつけは学校でも普通に行われています。ルワンダ人によると現在は法できんじられているとのことですが、実際に実践されているかというと、、、疑問です。
何人かの先生に囲まれ、正座の生徒を棒で打つ先生たち

なんで叩くの?と聞くと、だって子供は叩かないとわからないでしょ?という返事。憶測に過ぎませんがこうしたしつけがもしかしたら上からの圧力に従順なルワンダ人を生み出す一因になっているかもしれません。。



2013年11月25日月曜日

ルワンダ語辞書 最頻出日常会話編


*用例は実体験より抜粋


Ntakibazo(No problem) 意味: OK!(人が死んだとかそういうことはないというレベルで。)Rwandaの定義をEverything is Ntakibazoの国と書いたとして誤りではない最頻出単語。

用例:
A:自動車事故あったんだって?!かなり血を流しているのを見たよ!
B:ああ、彼は救急車で病院に運ばれて行ったけど、まあ、大丈夫だいじょうぶ!!Ntakibazo!!!(笑顔)


Muzungu (foreign people) 意味: 黒くない人

用例:
A:(道を通っていると)
子供: むじゅんぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!
ぐいーの!ママ!んだくうぇれかむじゅんぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!
(来てママ!白人見せてあげる)


Ndaje(I'm coming) 意味: 今行く!=2時間後には居る可能性がある

用例:
A:もう待ち合わせ時間だけど。どこいるの?
B:今家に居たよ(照)。Ndaje!
A::OK.
(1時間後)
A:まだ?
B:もうすぐ!Ndaje!
(1時間半後)
A:いまどこ?
B:雨が降ったから会うのは今度にしよう!

2013年11月22日金曜日

貧しいからこそ人は助け合える



田舎に住んでいる友達に日本の写真が入ったトランプをプレゼントしたら「オリジナルだ!」とびっくりされました。
新品のものじゃないことの方が多い世界
服や靴は中古品
下着も靴下もです。
ポケモンTシャツやドラえもんバック、ミッキー上着も見ましたが、何か分からず着ているよう。
カンフーは何故か皆知ってるのにディズニーを知らない

町でも人はどこかに穴の開いたような服を着ているし、
田舎に行くともっと程度が上がり、布が擦り切れて穴がぼっこぼこに開いて泥だらけの服を着ています。
新品を買おうと思ったら都市に行かなければいけません。

子供はタイヤとかガラクタをくっつけてつくったおもちゃで遊んでます。
裸足の人は多いし、
食事は豆、メイズ、プランテーンバナナなど。手のかからない穀物ばかり
男の人でも女の子ようのキャラクターバックを持っていたり。(プーさんの子供用リュックとか。かわいい)

また、勉強が好きで大学に行きたいけど、お金の関係で行けない、と言っている同年代の子もたくさん居ます。

わたしのいるキレヘに大学はありません。大学に行くためにはそこで過ごす生活費と学費が必要になりますが、現金収入がほぼない田舎で大学進学の費用をだすなど、簡単なことではありません。


一方で都市に住んでいるお金持ちの人や教会のパスターは、
「しっかりしたものを持たないと人から尊敬されないんだ」と、ベンツを乗り回して、毎日お肉とフリットを食べて、お腹がたぬきもびっくりなおおきさに膨らんでいます。首都キガリは妊婦さんの爆発的増加地域です。
そして使用人の人を家族のように扱っている人もいますが、本当に雑に接したり怒鳴ったりする人も。
ウムガンダというコミュニティーワークにお手伝いさんを行かせて自分は行かなかったり。
無駄にベットルームが3個、シャワーが2個位あったりするのは普通。

か く さ しゃ か い !!


では、田舎の人達は
「お金で幸福は計れない」
という点を、
キレへに来てますます感じています。

例えば、毎日のようなご近所さんの同士の訪問
コンセントや傘など日常品の貸し合い
子どもたちとの時間

日本では考えられないほど毎日家に訪問者が来ます!子供も入れると10人以上。音楽がかかれば皆で踊って、ご飯を分けあって、笑って、
工芸品をつくる仕事も外の草むらに皆で座って楽しそうに雑談をしながらやっています。
至る所で遊んでいる子どもたち。
小さい女の子も赤ちゃんを背負って遊びに出かけています。


貧しいからこそ人は助け合える、そんな希望も見えます。




2013年11月16日土曜日

ルワンダ辞書 行動編

ルワンダ辞書 行動編

喋る to talk
:とにかく挨拶とコミュニケーションは大事。
会ったほぼ全ての人に挨拶と握手、仲よかったらハグ
元気か、家族はどうか、どこに行くのか、どこからきたのか、平和か、いい日を、という感じの一連の挨拶を終える。
挨拶をし続けると、30分でつく学校に行くまでに3時間位かかったりする。
離れてるしいっか、誰かと話してるしいっか、などと日本的に挨拶をしなかった場合、後でなんで挨拶をしてくれなかったの?と聞かれる。
挨拶大事。

電話する to call
:電話代は安いのでいつでもどこでも皆電話をしている!そしてよく、挨拶だけのために電話がかかってくる。元気?→元気だよ!→良かった、OK see you!
これはよくある。
しばらく会えない子もよくかけてくれるのは嬉しい。
一方しつこい男の人はいつ家に来てくれるかを答えるまでかかってくるのには少し困ってしまう。
授業中でも電話があると人が教室から出て行く。授業<<<携帯
先生や司会者も、進行の途中で普通に携帯にでる。みんなでその様子を見ているのはシュール極まりない。おっ電話かかってきてる→おっ電話見た→って電話出るんか!と心で1人でつっこむ。
お金のない人はビープするが、大人でも常習犯は多い。電話が遅れた時の言い訳は「ごめんairtime(プリペイドカード)が切れてて!」である。
遅れる人は「Im coming!」と言ってくるが正しい訳は「運が良ければあと1時間以内につくよ☆」。

映画を見る to watch movie
:友達のパソコンを共有して見る。友達の家に遊びに行くと、喋る→お茶飲む→ご飯いただく→写真見る→映画見る、辺りは鉄板である。カンフー、空手、タイチ(太極拳)はだいたい皆知っている。日本の映画この前見たよ!と言われた時は大体中国映画の格闘ものであり少し悲しい。ルワンダ映画は最近作り始めているが、大体は外国映画をフラ語、英語またはキニャルワンダ語の翻訳で見ている。キニャルワンダ語がこれがなんともおもしろい。登場人物が喋った後に、1人の男の人がその情景とセリフを全部説明し、雰囲気も伝える。
例えば
「愛してる」「そんなの嘘よ!」などと登場人物が喋った後、
「男の愛しているというセリフを嘘だと疑う女性!!!険悪な雰囲気!」みたいな訳しているようである。
映画館は首都に最近出来た1個のみ。


2013年11月9日土曜日

キレへでの1週間


バナナの木の葉でつくられた青空お風呂
やぎさん牛さんの世話
土壁の小さいキッチンで薪を燃やして料理
すっごい時間がかかる
夜は必ず停電するので、7〜8時に寝る

雨が降ったら雨水を溜めて
水がなかったらくみにいく
牛乳は近所の人に毎日もらいにいって
子供はずっと外で遊んでて
皆踊りが上手い!

ご飯は米と芋とか
ウガリとか
キャッサバとプランテーンバナナとか
とにかく穀物攻め
朝はポーリッジ
飽きる、、と思ったら、なんかいつもよりバクバクと食べてる自分がいる不思議
あれ、下腹が、、、?

クリスチャンの家族なので、食前と就寝前はお祈り

いまのところダニさんノミさんの被害もない!
お腹を壊すこともなく
インターンもかなり興味深いものです。

このまま健康に楽しく過ごせますように。

インターンはじめました

一日中Tシャツを裏返しに着てたのをルワンダ人に、これは日本の文化なのか?と聞かれて初めて気づいた、そんな私ですが、文化伝導ということでね。。
おしゃれに気を遣わないのはいいとしても、表裏認識能力まで失ってはいけませんね。。
というのも明かりがない中で暗い部屋で着替えて、その後鏡がない中で生活していたから!気づかない!そして気にしない!

さて、私は今キレヘという田舎に居ます。
何をしているかというと、のんびりしてるわけですが

ブタレに居る時ものんびりしてたわけですが

こっちでは更にのんびりしてます!

今まではブタレというルワンダの大学が密集している町に住んでいたのですが、ここキレヘでは1ヶ月のインターンをする予定です。インターン先のNGOはジェノサイド後の和解を促進するために始まりました。現在は和解の初期フェーズをほぼ終え、加害者と被害者が共に養豚をしたり、聖歌隊を結成したり、伝統工芸品をつくるコーペラティプを作ったりして、協力することで更にコミュニティーを取り戻そうと奮闘しています。


今はステファニアさんというルワンダ人の方のお家にホームステイをさせてもらっています。
ステファニアさんはジェノサイドのサバイバーで、今インターン中のNGOの活動の中の1つ、「償いの家造り」によって家を建設。
この償いの家造りという活動は、ジェノサイドの加害者の人々が被害者に謝罪をした後、家を加害者自らの手で作る、という活動です。
お子さんが3人、ステファニアさん、ステファニアさん、そして養子の女の子とステファニアさんの母親の5人で暮らしています。

本当に笑顔が素敵なステファニアさん、
長女のコンソレが英語を少し話せるので助けてくれるのですが、
ほぼキニャルワンダ語。
そしてインターン先のスタッフが使うのはフランス語とキニャルワンダ語のミックス
語学的には恐ろしく良い訓練。うわー!
残り2ヶ月というところで、これまでにない勢いで自分のキニャルワンダ語が伸びています

でも、3月に一回訪問をした時点ではキニャで全く会話が出来なかったステファニアさんと、7ヶ月後にゆっくりなら会話が出来るようになるとは、外では役に立たない現地語それなりに話してきた甲斐があったかな?
と思います。






2013年11月5日火曜日

ほんとに自業自得なのか

自業自得

今の日本ってこんなイメージ。
例えば、近所の人の息子が受験に失敗して不良になって母親に暴力を振るうようになり、家庭が崩壊しました。
「可哀想。大変だろうね。きっと教育のせいもあるんじゃない?」
「ほんとうね。気持ちは分かるけど、うちの息子に影響が出ないようにしてほしいな。」

現代の日本は弱い人に手を差し伸べることが出来ない世の中になっているんではないでしょうか。

他人の問題を、個人やその家族の中に見出し、理由をつけ、自分との関係性を断つ。
自体の悲劇性や問題解決の困難さに同情はしても、問題を自分の枠の外に置き続けたい。

そのような意識は自分自身の価値観の中にも幼少期から育まれてきたと感じます。
具体的な例を考えてみます。
例えば、ボランティアを福島の震災後の地域で行った女性Aさん。
現地の人たちからお礼や笑顔をもらいやりがいと充実感を感じたとしましょう。おそらくAさんはまたこの人達のために働きたい、と思うはずです。
そのAさんにはBさんという友達がいました。Bさんは駆け落ちをし、子供を生んだあと、シングルマザーで子供を育てていました。酒やドラッグに手を出したうえ、両親から絶縁され貧困生活を余儀なくされていました。Aさんはそのことを知っており、明らかにBさんは危機に陥っていましたが、BさんからはAさんが自らそのような人生を選んでいるように見えました。そこでAさんがお金の支援を数回持ちかけても「構わないでよ」と逆に激怒したBさん。この時BさんのためにAさんは何かしたいと思うでしょうか。もしくは積極的に彼女の問題を解決してあげたいと思うでしょうか。休日を使って上の2ケースのどちらを手助けしたいと思うでしょうか。

ここでの問題提起は、「助ける価値のある」昔は知り合いではなかった震災地の人々を積極的に助ける一方で、自分と近い近所の人、クラスメート、同僚などの問題であったとしても「助ける価値のない」と判断した人間を、極端に排除するような社会になっていないか、ということです。

いわゆる「助けるに値しない」「助けられる権利がない」と考えられそうな人々は「助けなくていい」、そんな考えを持つ人が日本の社会に多くなってるんではないでしょうか。感謝されたい、自分をよく見せたいという動機から良い事ができたとしても、それが自分に少しでも危険を及ぼすものであればしたくない、ような考えが。というか私の中にそのような価値観が強く存在したことを、ルワンダに来て初めて気づきました。情けないですが。

「せっかく助けてやろうと思ったのに、それどころか怒るとは、なんてやつだ。」
「そもそも、彼女は自己責任でこうなった。意志が弱かったんだ。自業自得だ。」
こう思ったことが、誰しもあると思います。

「助けが必要な状況だったら、あっちから言うべきだ。」
「まあ後で自分で後悔して気づくでしょ」

Bさんの心はきっと他の人より弱かったのかもしれません。
手を差し伸べてくれる人に対し、甘えないこと、強がることがBさんにとっての人間の尊厳を守るための手段だったのかもしれない。
彼女の問題の根源は家族や恋人にあるかもしれない。けど、他に支えてくれる人がいなかったからかもしれない。社会の中で他に頼るべき人が居なかったからかもしれない。
Bさんが人の優しさに感謝するべきと思う人もいるかもしれないけど、その時Bさんにとってはお金の支援は不必要で、同じ立場で親身になって考える人が必要だったのかもしれない。

自分が感謝されたい、という気持ちを抜きに、Bさんの弱さや痛みに寄り添うという行為が、どれだけできるでしょうか。

私は助けてもらう必要がないくらい強く生きよう、という意識が幼少期から強かったと思います。
努力しなきゃ報われない。良い事をしたら幸せになる権利がある。仏教的な影響も強く見られます。
そこでは自分が頑張って、努力したからこそ、時にはいい結果を掴み取れる、ということがある種当然に思えました。
それは義務と権利の関係で言うと、「善く」生きる義務と、幸せや助けを得る権利とも言えるかもしれません。
(今考えると善がどれほど自己解釈で構成されているかという点も問題ですが・・・)

この意識は自分を律することには十分な作用を持ってきたと考えています。しかしそれを他人にも適用することはとても恐ろしいことと今では感じます。なぜならば「善く」生きる義務を果たせないものには、幸福や助けを受ける権利を消失するという論理になってしまうからです。この時対象から排除されるのは、義務を自己の意志ではなく放棄せざるを得ないもの、を含みます。

つまり「強く生きれる者」以外を無価値化して扱おうという世の中になるでしょう。誰もが「強く生きなきゃ、頑張らなきゃ」と思い、「頑張れない自分が駄目なやつだ」と感じる。日本がその傾向を持っているのではないかというのが私の考えです。

そこで思ったことは、義務と権利の関係ではなく、相手と自分の関係性をみること。

言い換えれば「助けるべき人だから人を助けてあげたい」ではなくて、「困っていそうな人がいるから、一緒に生きて、時間を過ごして、問題を解決する一助にでもなりたい。」というような心持ちで周囲を見渡せたら、ということ。
自分や家族や他人の問題から自分を遠ざけてしまわないで、本当の意味で親身になって考えられたら、ということ。
「社会的に弱い存在」を支える人になりたいということ。人の弱さや痛みを担える人間になりたいということ。

ということでした。


なんのためのボランティアなのか?


最近よくシェアされている記事に関して、なんとなく思ったこと。

自分の人生の目的と行動を一致させて考えてみると、やるべきことは分かりやすいんじゃないか?
もしボランティアの活動対象が人であったら、
誰のための目標と、誰のためになる行動なのか。
これがばらばらだったり、どっちか欠けていると、道に迷いやすいのかもしれない。

例えば
多くのボランティアにある潜在意識
「いいことをしたいから」
「成果を出す経験をしてみたい」

もし表面的には貧しい人たちを救いたいとか言っていて、その人達のためになると思われる活動をしていても、自分の目標が本当はその人達を助けるためよりも、自分の自己実現を重視しているときは、その活動は短期的な成功を収めることは出来ても、長期的にその人達のためになるかどうかは怪しいでしょう。
偽善でもやるだけいいじゃないか、といわれたら確かにそうですけど、でも動機は絶対結果に現れると思うんです。
今の時代は短期ボランティアや夏休み留学など「手軽」に手に入る「経験」が宣伝されて
お得な、ある意味ではボランティア側にだけ都合のいいシステムが多すぎますよね。
(もちろん短期でも本当にその土地の役に立てるような業務はあると思いますが。例えば人材不足の地域での労働力の提供とか)
それは自分が手軽に良い事をしたいから参加するのでしょうか。それともその土地の人達のために何かをしたいからするのでしょうか。

また、自分にとっての「良いこと」を目的化しないようにも注意が必要ですよね
植民地の時代にミッショナリーは無知無文化のアフリカ人を教育するためという理由付けの元、植民地政策の初期段階に大きな役割を担いました。
それと同じことをしてる人たちは現代にいっぱい居るんじゃないでしょうか
自分の「right」を相手にとっての「right」を知りもせずに押し付ける。
アフリカは技術や学術の面で後れを取っているのは事実ですが、
例えば外人がいきなり来て焼畑を強制終了させて耕作して失敗してしまった例があるように、その土地の人や文化を知らずして、勝手に自分にとっての常識や「良いこと」をおしつけることはやめるべきです。


一方で、気持ちはあるけど行動に出ていない例。
国際問題をディスカッションしていて、
「大変なんだね、自分たちはそうじゃなくて幸せだ」
「これから考えていかなきゃね」
っていう感想で終わるのは、意味が無いですよね。

大変だから、どうすればいいのか?
これからはいつか?
更には
なんのために考えるのか?
誰のために?
何故その人のために何かしたいのか?

せっかく興味があるのなら、ディスカッションだけで満足したり、就活は切り替えて別の仕事と割り切ったりするのは勿体ないことです。社会の問題点を知っただけで、社会は変わりません。

目的と行動を一致させるのは、自分のためにもなると思います。
例えばこのボランティアの例で言うと、いいことをした気になって、でも自分は先進国で得られる利益を傍受して、途上国を可哀想とだけ思って、そこから学ぼうともしない、そんな人って逆に可哀想じゃないですか

私が最近思ったのは、国際協力の現場で活動するならば、
1つ問われていることがあるんじゃないかということ。

「感謝されなくても、成果がなかなかでなくても、その人達に寄り添っていく覚悟があるのか、」

自己犠牲の精神self-sacrificeがあるのか?

こっちに来て、クリスチャンの人や、実際の土地で生きているアフリカの人のほうがよっぽど平和に対する意識が高いと思いました。自分がその現場に入ることで、得られるものの大きさを分かっているからでしょう。

日本はまさに平和ボケの時代にあるのかもしれません。問題が不可視化され、多くの人が日本が平和だと思っている今の状態は、決して平和なことに対して油断しているというのではなく、平和だと思い込んでいること自体が問題なのだと思います。

なんか色々と考えていつも通りの乱文ですが、自分の将来を重ねて考えていました。
社会の中で自分はどう立つべきか?
今自分に問い続けています。。。


M23撤退

コンゴから国連軍の後ろ盾を得たコンゴ国軍の手により、M23が撤退しています。
M23は2012年3月23日より発足したコンゴ国内にいる反乱軍で、コンゴ東部を占領し、大量の難民の発生、コンゴ内戦の長期化の最大要因となってきました。
このM23にはルワンダ政府の関与が指摘されており、ルワンダの確か国防長官が指揮をとっているとリークされていました。
現在は銃声がなりつづき、難民は80万人に及んでいるようです。
M23はウガンダ、ルワンダに逃亡し、コンゴからの非難をうけています。
今がコンゴ内戦の将来を決める大きな分岐点となっていることは確かです。

日本ではどの位報道されているのでしょうか。