2013年11月5日火曜日

なんのためのボランティアなのか?


最近よくシェアされている記事に関して、なんとなく思ったこと。

自分の人生の目的と行動を一致させて考えてみると、やるべきことは分かりやすいんじゃないか?
もしボランティアの活動対象が人であったら、
誰のための目標と、誰のためになる行動なのか。
これがばらばらだったり、どっちか欠けていると、道に迷いやすいのかもしれない。

例えば
多くのボランティアにある潜在意識
「いいことをしたいから」
「成果を出す経験をしてみたい」

もし表面的には貧しい人たちを救いたいとか言っていて、その人達のためになると思われる活動をしていても、自分の目標が本当はその人達を助けるためよりも、自分の自己実現を重視しているときは、その活動は短期的な成功を収めることは出来ても、長期的にその人達のためになるかどうかは怪しいでしょう。
偽善でもやるだけいいじゃないか、といわれたら確かにそうですけど、でも動機は絶対結果に現れると思うんです。
今の時代は短期ボランティアや夏休み留学など「手軽」に手に入る「経験」が宣伝されて
お得な、ある意味ではボランティア側にだけ都合のいいシステムが多すぎますよね。
(もちろん短期でも本当にその土地の役に立てるような業務はあると思いますが。例えば人材不足の地域での労働力の提供とか)
それは自分が手軽に良い事をしたいから参加するのでしょうか。それともその土地の人達のために何かをしたいからするのでしょうか。

また、自分にとっての「良いこと」を目的化しないようにも注意が必要ですよね
植民地の時代にミッショナリーは無知無文化のアフリカ人を教育するためという理由付けの元、植民地政策の初期段階に大きな役割を担いました。
それと同じことをしてる人たちは現代にいっぱい居るんじゃないでしょうか
自分の「right」を相手にとっての「right」を知りもせずに押し付ける。
アフリカは技術や学術の面で後れを取っているのは事実ですが、
例えば外人がいきなり来て焼畑を強制終了させて耕作して失敗してしまった例があるように、その土地の人や文化を知らずして、勝手に自分にとっての常識や「良いこと」をおしつけることはやめるべきです。


一方で、気持ちはあるけど行動に出ていない例。
国際問題をディスカッションしていて、
「大変なんだね、自分たちはそうじゃなくて幸せだ」
「これから考えていかなきゃね」
っていう感想で終わるのは、意味が無いですよね。

大変だから、どうすればいいのか?
これからはいつか?
更には
なんのために考えるのか?
誰のために?
何故その人のために何かしたいのか?

せっかく興味があるのなら、ディスカッションだけで満足したり、就活は切り替えて別の仕事と割り切ったりするのは勿体ないことです。社会の問題点を知っただけで、社会は変わりません。

目的と行動を一致させるのは、自分のためにもなると思います。
例えばこのボランティアの例で言うと、いいことをした気になって、でも自分は先進国で得られる利益を傍受して、途上国を可哀想とだけ思って、そこから学ぼうともしない、そんな人って逆に可哀想じゃないですか

私が最近思ったのは、国際協力の現場で活動するならば、
1つ問われていることがあるんじゃないかということ。

「感謝されなくても、成果がなかなかでなくても、その人達に寄り添っていく覚悟があるのか、」

自己犠牲の精神self-sacrificeがあるのか?

こっちに来て、クリスチャンの人や、実際の土地で生きているアフリカの人のほうがよっぽど平和に対する意識が高いと思いました。自分がその現場に入ることで、得られるものの大きさを分かっているからでしょう。

日本はまさに平和ボケの時代にあるのかもしれません。問題が不可視化され、多くの人が日本が平和だと思っている今の状態は、決して平和なことに対して油断しているというのではなく、平和だと思い込んでいること自体が問題なのだと思います。

なんか色々と考えていつも通りの乱文ですが、自分の将来を重ねて考えていました。
社会の中で自分はどう立つべきか?
今自分に問い続けています。。。


M23撤退

コンゴから国連軍の後ろ盾を得たコンゴ国軍の手により、M23が撤退しています。
M23は2012年3月23日より発足したコンゴ国内にいる反乱軍で、コンゴ東部を占領し、大量の難民の発生、コンゴ内戦の長期化の最大要因となってきました。
このM23にはルワンダ政府の関与が指摘されており、ルワンダの確か国防長官が指揮をとっているとリークされていました。
現在は銃声がなりつづき、難民は80万人に及んでいるようです。
M23はウガンダ、ルワンダに逃亡し、コンゴからの非難をうけています。
今がコンゴ内戦の将来を決める大きな分岐点となっていることは確かです。

日本ではどの位報道されているのでしょうか。

2013年10月28日月曜日

機会の平等

東京で生きるより、秋田にいるころの方が何も考えずゆっくり生きていました。
なぜかというと考えなきゃいけないこと、やらなきゃいけないこと、娯楽に行く所、といった「選択肢」が驚くほど少なかったからでしょう。
特に特技もないし、趣味もない私なので、何かに熱中した記憶があまりありません。
強いて言えば趣味は一人オセロと読書でした。(楽しかったです)
何もすることもないけど、何かに焦らされることも少なく。
私は秋田が好きです。東京に来てからますます郷土愛というものが深まったようです。
少なくとも老後は秋田のような田舎で過ごしたいなーと思います。

しかし、大学受験に際しては、何もない秋田から出たいという強い気持ちはありました。

もし私があの時東京に来るのを止められていたら、もしくは財政的な余裕がなく断念せざるを得なかったら、相当なストレスと抑圧を感じていたはずです。
いわゆるお勉強にかけた努力に見合うチャンスがないということにわだかまりを感じていたはずです。

今日は機会の平等ということについて考えていたのですが、

私はルワンダの人は日本に比べ社会的に充足した状態にあり、日本人が憐れむどころか見習うべき点がたくさんあると思います。みんな楽しそうに笑うし、声を掛け合ったり、家族や友達といる当たり前の時間を当たり前に持っています。

しかし先進国に住む私達が海外旅行を気軽に行う一方で、300円かければいける隣の国にも行ったことがない人がたくさん居ます。
欧米人やアジア人の人と話していると、「日本に今度行こうと思ってる」「日本に来なよそしたら案内するから」「絶対行くよ!」という会話になるのですが、ルワンダ人の友達と話していると「日本に行きたい!」「来なよそしたら案内するから」「でも実現可能かは分からない、、航空券も高いし、行ってからもかかるんでしょ?将来的に絶対行きたいけど、、」

という会話になってしまいます。
大学へのアクセスがない若者もたくさん居ます。一年で4万ほどの授業料は現地の人にとっては大金です。
今は働いて機会を待っているけど、いつになったら貯まるのか予想もつかない。
または労働力需要が少なすぎて働くことも出来ず居候生活、など、よく聞く話です。

そんな時、ルワンダ人の友達になんて返せばいいのか、よく分からなくなってしまうのです。
所詮自分は幸運にも機会を得て自分の好きなように留学し、物価のギャップを利用してそれなりの暮らしをしているのですから。

平和学の権威ヨハン・ガルトゥングがPotentiality潜在的実現可能性のために構造的な暴力が克服されるべきと論じましたが、これも彼がpotentialityを妨げられている状態と言うのではないでしょうか。
日本では(もちろん全てが簡単というわけではないですが、)お金を借りたり、奨学金をもらうことが比較的容易にできます。田舎の学校と言っても当たり前にパソコンが使えますし、勉強用具の点でほとんど差異は出ないと思います。
もちろん私も田舎育ちなので、都会に比べれば様々な面で大学進学などへのチャンスが狭められていたと感じます。
しかし、機会が全くない人は少ないと思います。

機会の平等、特に教育へのアクセスがどうすれば改善されるか、
ルワンダはかなり進んでる方だと思うのですが、
来月は現地で田舎の現状をもうちょっと見てきたいと思います。

2013年10月24日木曜日

インターネットについて

インターネットが最近本当に遅い。
Gmailを開くのに10分、幸運だと1つのメールを開くのに5分
普段は開けないといった感じ。
Facebookは上の青いバーしか表示されない。
アフリカの地でこれだけインターネット回線が発達していることはもちろん最初は驚きであったけれど、
回線があるのに使い物にならないのでは、最初から無い方がマシなのではないかと思う。


ところでわたしの通う大学では、みんなが様々な言い訳を言って文献を読んでこないのですが、その大きな言い訳の1つとして、インターネットコネクションがあります。
パソコンを持っている人は少ないし、インターネットを使うためのモデムを持っているひととなると極稀です。
そして繋がったとしても回線は遅くてDLも途中で強制終了したり。
多くの資料がメールで送られ読んどけと言われる時もあるのですが、実際読んで来る人はほとんどいません。
学校のコンピューター室に至っては悲劇的な状況で、私は今まで回線がいい時にあたった試しがありません。

まあ単に不真面目な人も多いわけなんですが、

そうやって家にネットもないし、朝から学校の前まで仕事をしているのでどこか別の場所で使う暇もないような人も、一枚3円のコピーをするお金がない人も居るわけです。

そうなると先生の側からも強くいうことが出来ず。
ルワンダの先生はパソコンが壊れたといって必要な情報を開示してくれないことさえあります。

キガリという首都になるとぐっと良くなるらしいですが、、、
こればっかりはどうしようもないですね。
YouTubeや色んなサイトをみてだらだら出来ないのを前向きにとるしかありません。

2013年10月21日月曜日

雨とダンスと体重

今日は昼ごろに強く雨が降り出しました。

雨=約束中止

これはルワンダで小学校の算数で教わっている方式かと思われます。

今日はインターンに行く予定だったのですが、2時の約束が2時10分の電話で当然のように中止になりました。
この国ではインターンでなくても友だちとの約束でも集会でも当然のように、延期ときどき中止になる模様です。
また、雨季は毎日雨がふってこその雨季ということで大体約束は明日か明後日の方向に進む見込みです。

以上現場からの中継でお送りしました
というわけで最初は傘をさしてせっせと歩いていましたが、最近では頑張って行っても誰もいないし損、という思考になり、結果雨がやむまではゆっくりしています。
これを人は順応と呼ぶのでしょう

私の部屋の窓の1つは何故かガラスがなく、今日の土砂降りでは雨が家に入ってきて大変でした。
洗濯物も乾かず、、、


こんな日は誰も居ない寮の食堂に行って軽い筋トレとダンスの基礎練習をするのが好きです。
ルワンダにはダンスをする場所といえばナイトクラブかエアロビクスしかないので、寮の食堂は床がコンクリートなのでヒールを使えるし、無駄に広いし、ダンスにはぴったりなのです。ええ不審者ですけど、、、まあルワンダだから大丈夫!
私は競技ダンスという部活に入っているのですが、ルワンダで社交ダンスを知っている人は全く居ません。
7ヶ月も離れていると、、やはりダンスをしたいなあと思います。
更に最近私は順調に大きくなっているわけなのですが、日本に帰るまでにはたるんだ筋肉を取り戻して、身体を引き締めなければと。

あーうらら久しぶりーー!あれ、、、動くじゃがいもか。

と言われかねない危機的な状況です。身体はまあいいんですけど顔が、、
食を制限するダイエットよりも、健康に食べて筋肉をつけて運動すれば確実にやせることが部活のお陰で分かったので、元に戻るまで少しずつ運動を続けたいなあと思います。

ちなみにルワンダじんには「ルワンダ人に近づいてきたね」と喜ばれます!
足が綺麗で細い子は「私の足は棒みたいでよくない」と言ってるし、
価値観は全然違いますね。

2013年10月14日月曜日

太湖地域の平和

今日は「平和」の意味を考えた一日でした。

ルワンダは治安がいいと言われています。
住んでみても、今まで盗難や事件にあったことは一回もありませんし、人々は大体優しく、他の地域に比べると驚くほど平穏です。

人々の挨拶でも
Ni amahoro?(Is Peace) 平和?
Ni amahoro.(Yes) うん平和−。

といった掛け合いがよくされています。

しかしその平和とは誰にとっての平和でしょうか?
ルワンダは平和だ、と言った時、その平和は「ルワンダ国内」の「一部の」国民にとっての「消極的な」意味にとどまっていないでしょうか。
ルワンダ政府が関わることにより複雑化しているコンゴ情勢を無視したものになっていないでしょうか。
ブルンジでの一時的な停戦の先へ進むために、ルワンダからできることはないのでしょうか?

例えば、今ルワンダの治安がいいことはもちろん喜ぶべきことです。
しかしだからといって、ルワンダ政府の関与が明らかであるコンゴ紛争に見て見ぬふりをし続けていいのでしょうか。
その政府を支持している以上、国民には国家の行動に責任が伴うと思います。
コンゴへの関与の絶対的な否定や、彼らが野蛮だから戦争が続いているといったような発言をする人、関与を認めつつも現在の政権の方針を指示している人。
情報公開がされていないこと、法律で表現の自由に規制がかかっていること、などもちろん政府に反する行動をおこしにくい社会であることは確かですが、それでも一部のルワンダ人の態度に疑問を抱きます。

今日は新入生の歓迎会を開きました。
その中で短時間のディスカッションの時間を作りました。私達が設定したテーマは「<太湖地域の平和>の意味とは」
以前まで留学生はわたし一人だったのですが、新しくコンゴやブルンジからの留学生が大学に来ました。これにより、ルワンダ人だけで話すことが出来る平和から、もっと視野を広げたディスカッションができたと思います。

一人の学生が
Peace is not for certain person, but for all
と言いました。
We cannot achieve any kind of peace when any other country in great lake region is in war and there is someone who struggle from violence, hunger and poverty.

Given the situation in DRC and relationship among countries in GLR, we have to go beyond discussion. It means that Peace studies should be treated with practical means as much as theories.

一介の学生たちに何が出来るのか
武力介入を容認したままでいいのか。
現政権のいい面を残しつつ変えていくことは可能なのか。。

リスクがないアイディアは思いつきません。
国外追放や逮捕などのリスクはもちろん避けたいですが、
だからといって何もしないのでは日本に居て黙っているのと同じです。

Indeed, We need peace
という歌(友達作)が心に残りました。




2013年10月11日金曜日

無償の優しさ

ルワンダ人は本当に優しい。簡単に詐欺に騙されそうな純粋さであり、子供だったら簡単に誘拐されそうな人懐っこい子どもたちがたくさんいる。

今日もいつもの道を通って家に帰ろうとしたら、雨が降ってきた。

まずいなー傘持ってないな−と思っていると、バイクタクシー乗り場に溜まってるドライバーたち10人位がこっちに来いこっちに来いと言っている。

このドライバーたちはわたしがいつも通るので顔と名前は覚えてくれているみたいで、いつも挨拶や軽い会話をしている。

でも今はお金ないからバイク乗らないよ、家近いし!
といって通りすぎようとすると、

というと、問題ない、大丈夫、うららは友達だから、と言ってわたしに無理やりヘルメットをかぶせ、雨が強くなるから!と急かし、バイクに乗れの合唱。そして、家までタダで乗せてくれた。

お金もそんなにないはずなのに、バイクタクシーにタダで乗せてくれることはよくある。

現地語をちょっと覚えたおかげでコミュニケーションが最低限できることも、こうして優しさをもらえる理由の1つかもしれないけど、それを抜きにしても、こんな無償の優しさをもらえることって日本だと少ないんじゃないか。


ちょっと嬉しかった出来事でした。